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世界三大宗教の一つである仏教は2500年にわたり世界に伝播し、人々の精神文化に深遠な影響を与えてきました。古代インドにおける釈尊の存在と言動を起点とし、釈尊の覚りを根拠とした智慧と慈悲を伝える仏教は、釈尊滅後に釈尊自身の言葉を「経」蔵、教団生活の規則を「律」蔵、後代の仏弟子たちによる解説を「論」蔵として統括し、これらを総称して「三蔵」としました。当初は口伝で三蔵を伝承したが、後に文字として伝承するようになります。やがて紀元前後から1000年以上にわたって断続的に、インドから中央アジアを経て中国へと仏教文献が将来され、翻訳が続けられることで漢訳仏典が整備されていき、仏教聖典の一大集成として時々にまとめられます。やがて中国に紹介された聖典集成は「大蔵経」と称され、唐代には一蔵の総数が5,048巻を数え、その後も新たな経典が逐次に翻訳と追加が行われ、総数が増加していくこととなります。
北宋時代になると印刷技術の発展に伴い、大蔵経は国家的事業として木版印刷で刊行されることとなります。それ以降、大蔵経の木版印刷は、一方で中国や朝鮮半島の歴代王朝による国家事業として進められ、他方で経済・文化の発展に伴い個々の寺院や個人によっても進められました。
現在、確認される限りでは、中国および同じく仏教文化を共有する高麗では、複数の王朝のもとで、10世紀から18世紀にかけて以下のように開版されています。
【宋時代】 | 開宝蔵(10世紀)、東禅寺蔵(11~12世紀)、思渓蔵(12世紀)、開元寺蔵(12世紀) |
【元時代】 | 普寧蔵(13世紀)、磧砂蔵(14世紀) |
【明時代】 | 洪武南蔵(15世紀)、永楽南蔵(15世紀)、永楽北蔵(15世紀)、嘉興蔵(16~17世紀) |
【清時代】 | 乾隆蔵(18世紀) |
【遼】 | 遼蔵(10~11世紀) |
【金】 | 金蔵(12世紀) |
【高麗】 | 高麗蔵(初雕版11世紀、再雕版13世紀) |
また日本においても17世紀に2度、天海蔵、鉄眼蔵という木版大蔵経が開版されています。一蔵5,000巻を超える巨大な規模を有する大蔵経が、木版印刷として10世紀から18世紀にわたる各時代・各国において刊行されるという稀有な事象は、大蔵経の制作自体が宗教的に特別な意味を有する一大事業であり、大蔵経そのものが信仰対象であるとともに貴重な文化財として認識されていたことに起因するものであります。これほど巨大な規模を誇る聖典叢書が、各王朝の国家的事業として幾度も刊行されることも世界的に稀有な事例です。
しかし、このようにして刊行された大蔵経は、大部である上に木版であったが故に、発行部数も決して多くはなく、貴重な財物として外交の交易品などとして扱われました。そして、中国歴代王朝の変遷や戦乱により多くが失われ、また版木も大半が焼失し、完備された形で現存する大蔵経は稀なものとなっています。
増上寺が所蔵する三種の大蔵経は
①中国、南宋時代(12世紀)に開版(版木が作成)された思渓版大蔵経5,342帖 |
②中国、元時代(13世紀)に開版された普寧寺版大蔵経5,228帖 |
③朝鮮、高麗時代(13世紀)に開版された高麗版大蔵経1,357冊 |
となっています。
思渓版大蔵経は南宋の紹興2年(1132年)頃、湖州帰安縣(浙江省湖州市)の思渓円覚禅院において王永従とその一族が願主となり版木を作成したものです。『菩提行経』や『解脱道論』の刊記には「王永従」「王沖允」「靖康元年(1126年)」と見えます。また、『大方広円覚修多羅了義経』序には「淳祐庚戌」年(1250年)に版木を補修したことが述べられています。この版木は徳祐2年(1276年)、元のフビライ=ハンによる南宋侵攻で焼失した。そのため思渓版大蔵経の印刷時期は1250~1276年の間と推定されます。
中国湖州で印刷された思渓版大蔵経が日本に伝来した時期について、増上寺の経蔵を管理していた随天が延享5年(1748年)に記した『縁山三大蔵経縁起』は、建治元年(1275年)に菅山寺(滋賀県長浜市)の僧専暁が中国より持ち帰ったとあります。同内容は永正14年(1571年)、菅原光仁の編集による『菅山寺縁起』にも見え、実際に思渓版大蔵経には「菅山寺」印が散見しています。増上寺所蔵『御経蔵御再建記』に収録される寛政11年(1799年)、増上寺役者より寺社奉行へ提出した「覚」には、思渓版大蔵経が慶長18年(1613年)、菅山寺より江戸幕府の創始者である徳川家康へ献上され、さらに家康が増上寺へ寄進したと記されています。
普寧寺版大蔵経は元の至元27年(1290年)、杭州余杭県(浙江省杭州市)の白雲宗総本山、南山普寧寺において住持、古山道安が願主となり、江南地域の諸寺院と協力して版木を作成したものです。これまでの研究および刊記によれば、増上寺所蔵のものは、大徳2年~泰定2年(1298年~1325年)の間の印刷であり、これが日本に伝来した時期・経路については、1407年朝鮮王朝に対する大内盛見の要請に応じて遣わされ、一時期は山口の興隆寺に設置されていました。その後、慶長15年(1610年)、徳川家康が増上寺へ寄進したという記録が残っています。増上寺所蔵『御経蔵御再建記』に収録される寛政11年(1799年)、増上寺役者より寺社奉行へ提出した「覚」には、②を慶長15年(1610年)、徳川家康が増上寺へ寄進したと記されています。
高麗版大蔵経は高麗の高宗35年(1248年)、京畿道江華島(仁川広域市江華郡)に設置された大蔵都監において国家事業として版木を作成したものです。この大蔵経は版木が現存していることから、初版以降、現在までに何度も印刷が行われてきました。これまでの研究によれば、増上寺所蔵のものは、印刷時期は、李朝の世祖4年(1458年)であり、海印寺(慶尚南道陜川郡)に安置された版木を用いて50部を印刷し、国内の諸大寺に奉納した中の一つであるとされています。日本への伝来については、文明年間(1442年~1500年)に忍辱山円成寺(奈良県奈良市)の僧栄弘が朝鮮・慶尚南道にあった大蔵経を、成宗13年(1482年)に持ち帰ったとされています。その後、慶長14年(1609年)、円成寺より徳川家康へ献上され、さらに家康が増上寺へ寄進しました。
このように増上寺に所蔵される三大蔵は、いずれもその版木の作成時期や場所が明記されており、また日本への伝来時期や経緯も判明しています。そのため、その真正性は明らかであり、明治32年(1899年)8月1日には古社寺保存法により日本の国宝(旧国宝、現在の重要文化財)に指定されています。
度重なる激動の時代を経るごとに、中国では大蔵経が散逸し、朝鮮半島においても高麗時代の版一つのみが保存される結果となりました。こうしたなか大蔵経諸版を所蔵することに宗教的価値が見出されていた日本では、中国・朝鮮で刊行された木版大蔵経が各地に遺されます。このようななかでも、ほとんど完本の状態の大蔵経の三種類の版、すなわち三大蔵を所蔵しているのは、公表されている限りでは増上寺のみです。
この三大蔵という稀有な状態を作り出したのが江戸幕府初代将軍である徳川家康公(1543〜1616)であるという点は、日本の歴史上、特筆すべき点でもあります。徳川家康公は、日本の戦国時代から江戸時代初期の武将であるとともに、様々な戦乱を経て権力を掌握し、1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きました。これにより、日本国内で265年にわたる長期間の平和と政治的に安定し、周辺諸国とも戦争がない、世界史的にも稀有な時代が始まることとなります。この徳川家康公が、大蔵経保持の本来の目的のまま、仏教の智慧と慈悲の象徴として、また徳川の治世の永続を祈願して、増上寺に寄進した三種の大蔵経が増上寺三大蔵です。家康公は、日本での大蔵経刊行を目指し、日本から中国や朝鮮半島に対して、逆に日本製大蔵経の輸出を考えていたと思われます。だからこそ自らが庇護する増上寺に三種の大蔵経を収集し、これらを校合の上で精度の高い、かつ日本文化の象徴としての大蔵経の刊行と輸出を本気で構想していたことでしょう。
増上寺は明徳4年(1393年)に、浄土宗第八祖にあたる聖聰が、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)に創建した寺院であり、その後、徳川家康の帰依と庇護を受け慶長3年(1598年)現在地(港区芝公園)に移転します。江戸時代には徳川将軍家の菩提寺として、また浄土宗の宗務全般を統括する総録所、関東十八檀林の筆頭として隆盛を極めました。江戸幕府の治世の間、世界が大きく動乱していた時代にあって、日本は国内外で大きな戦乱などなく安定した時代を送っていたからこそ、三大蔵は増上寺において護持され続けました。増上寺三大蔵は、日本だからこそ今日まで大切に保管され、伝えられてきた存在です。この三種の完本に近い版が同一の場所に所蔵されていたことが、日本近世、そして近代における大蔵経校勘作業の資料的かつ思想的な背景となりました。
増上寺所蔵の三大蔵は三種の大蔵経という一大仏教聖典叢書であり、その存在は中国宋代と元代および朝鮮半島高麗時代に国家の威信と当時の印刷技術の粋を集めた存在であります。その意味でも増上寺三大蔵は印刷文化と漢字文化の集大成的存在といえるでしょう。各大蔵経の刊記から見ても、各時代における製作は事実であり、日本に移入されたこと、そして徳川家康公によって増上寺に移管されたことも歴史的事実です。このように三種の大蔵経という膨大な仏教聖典が400年以上にわたって一箇所に所蔵され続けているということも、徳川将軍家菩提寺の増上寺だからこそ、そしてこの日本だからこそ成し得た、世界的にも稀有なる事例です。
この増上寺所蔵の三大蔵は世界宗教である仏教の歴史と教義の精神的支柱であり、東アジアの活字文化と印刷技術の結晶でもあります。増上寺所蔵の三大蔵を最大限に利用して、日本独自の新たなる大蔵経を編纂し、それを世界に広め、世界に平和と安寧をもたらすことが、増上寺に三大蔵を寄進した江戸幕府初代将軍の徳川家康公の強い願いでもあったと考えられます。徳川家康公の強い願いと、江戸時代という戦乱がなく安定した時代があったからこそ、増上寺は徳川将軍家菩提寺として「三大蔵」という無二なる什物を、今日まで大切に伝えることができました。さらに増上寺所蔵の三大蔵は、江戸時代のさまざまな災害、関東大震災、東京大空襲など幾多の危機を乗り越えてきた歴史的遺産でもあります。
また増上寺所蔵の三大蔵が『大正新脩大蔵経』が編纂された際に底本・校本として使用されたということは、増上寺三大蔵が漢訳仏教文献研究における最も基盤的資料であることを意味します。今後も人文情報学の方面においても将来にわたって多大に貢献していくことを考えると、増上寺三大蔵は「仏教の法宝」を歴史の中で伝え続けている存在であるとともに、仏教の智慧を極めて有効的かつ具体的に活用し続けている存在でもあります。その意味においても、増上寺所蔵の三大蔵は歴史的な真正性、内容の完全性、文化財としての希少性において、唯一無二なる人類の叡智の至宝であります。
本サイトで公開するデジタル増上寺三大蔵は、思渓版大蔵経(宋版) 161,191コマ、普寧寺版大蔵経(元版) 163,569コマ、高麗版大蔵経(高麗版) 158,429コマの約48万コマからなります。
公開後、再撮影に伴う追加を行っていますので、この数字は今後多少変化することがあります。
以下に、各蔵の画像についての解説と、本サイトでの閲覧方法を紹介します。
増上寺蔵の宋版は、版木1枚あたり17字30行に摺られた紙を3〜55紙張り貼りついで1帖とし、それに表紙を付した折本仕立てです。一部が黄檗版等で補填されています。
また元版は、版木1枚あたり17字30行に摺られた紙を数紙〜数十紙張りついで1帖とし、それに表紙を付した折本仕立てで、こちらも一部が黄檗版等で補填されています。
昭和53年から同56年にわたり、増上寺では所蔵する三大蔵経の内、宋版と元版の全紙を撮影しマイクロ写真フィルムが作成されました。本サイトで公開するこの二蔵の画像は、このマイクロフィルムを撮影してデジタル画像としたものです。マイクロフィルムの撮影条件は不明です。16mmマイクロフィルム(リール)にモノクロで撮影され、概ね13コマ毎に切断されたネガフィルムが、1帖毎にシート(切断されたフィルム5本を収納可能)にまとめて収められています。このマイクロフィルムからデジタル画像を作成しました。マイクロフィッシュスキャナーを用いて作成されたグレースケール、400DPI、4500x6150ピクセルのTIFF画像(1ファイルあたり約27MB)を、1MB弱のPyramid TIFF画像に圧縮・変換し、公開しています。なお、マイクロフィルムの撮影時の不具合、マイクロフィルムの劣化等で十分に画像が確認できないコマは、再撮影しました。再撮影分はカラーの高精細画像で見ればわかりますので、一々再撮影であることを断っておりません。画像の条件は後に述べる高麗版と同じです。
元版は、宋・高麗版と比べて保存状況の悪い帖が多くあり、マイクロフィルム撮影時に一部が浅草寺蔵の元版(各帖の冒頭に鶴岳八幡宮の蔵書印があります。『増上寺史料集別巻』三大蔵経目録(以下、三大蔵目録)では紙数がイタリック表示してあります)で撮影・補填されました。今回、増上寺三大蔵を公開するに当たり、浅草寺様の御厚意より浅草寺蔵本から補填されたマイクロフィルムからの画像を公開することができました。感謝申し上げます。
各冊とも、茶色貼り合わせ表紙付きの袋綴の冊子です。今般の公開のために、原資料から直接撮影いたしました。冊子の見開を1コマとします。1億画素の中判デジタルバック、マクロレンズ(単焦点)を使用し、RAW データの色深度が16bit、資料原寸(見開き394mm×584mm程度)に対して400DPIとなるようにカラー撮影したTIFF画像(1ファイルあたり303.3MB)を、14〜20MB程度のPyramid TIFF画像に圧縮・変換し、公開いたしました。
以上の各蔵とも、公開用画像を作成する過程で、オリジナルのTIFF画像を一旦JPEG画像に変換し、そのJPEG画像に「浄土宗大本山増上寺所蔵」のロゴを画像左上に、浄土宗を表す「月影杏葉」の紋と増上寺を表す「三つ葉葵」の紋を画像右下に埋め込んで、それをPyramid TIFF画像に変換しました。
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今般の増上寺三大蔵画像アーカイブを活用して、大正新脩大蔵経の底本と対校本を画像として閲覧することができるようになりました。目録の情報には今後、有用と思われる情報を付加する予定です。
各方面で活用されることを切に望んでおります。