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		<title>浄土宗 - 版の履歴</title>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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				<updated>2018-03-30T06:25:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:25時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>2018年3月30日 (金) 06:25に192.168.11.48による</title>
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				<updated>2018-03-30T06:25:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=じょうどしゅう／浄土宗=&lt;br /&gt;
==［歴史］==&lt;br /&gt;
[[阿弥陀仏]]の[[本願]]の[[他力]][[念仏]]により[[浄土]]へ[[往生]]することを求める宗派で、[[法然]]によって確立された。淵源はインドの[[龍樹]]の難行易行二道、中国の[[曇鸞]]の[[自力]][[他力]]二門、[[道綽]]の[[聖道]][[浄土]]二門、[[善導]]の[[頓漸二教]]の判釈による。[[本願]][[念仏]]が[[頓教]]であることは[[善導]]によって位置づけられていたが、[[浄土門]]（宗）としての独立性はなかった。[[法然]]が[[浄土宗]]を開くことを宣言した後、とくに[[南都北嶺]]からの批判が強くなり、[[貞慶]]は『[[興福寺奏状]]』において「第一に新宗を立つる失。…すべからく公家に奏して勅許を待つべし。私に一宗と号すること甚だ以て不当なり」（仏全一二四・一〇三下）と批判した。しかし『[[一期物語]]』によると[[法然]]が「若し天台の教相によれば[[凡夫]][[往生]]をゆるすに似たりといえども[[浄土]]を判ずる事至て浅薄なり。若し法相の教相によれば[[浄土]]を判ずる事甚深なりといえども全く[[凡夫]][[往生]]をゆるさず。諸[[宗門]]の所談異なりといえども&amp;lt;ruby&amp;gt;惣&amp;lt;rt&amp;gt;すべ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;て[[凡夫]][[報土]]に生ずと云事をゆるさず」（昭法全四四〇）と当時の[[仏教]]界の状況を伝えているように、[[三学非器]]といわれる[[凡夫]]が[[報土]]に生まれる教えを独立させる必要性があった。それは「勝他の為にあらず」の立場で「[[一心]]に専ら[[弥陀]]の[[名号]]を念じ、[[行住坐臥]]に時節の&amp;lt;ruby&amp;gt;久近&amp;lt;rt&amp;gt;くごん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を問わず、念念に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」（聖典二・二九四／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0058 浄全二・五八下]）との[[善導]]『[[観経疏]]』の一文による新しい宗派であり、承安五年（一一七五）に開かれた。[[開宗]]を宣言した[[法然]]は西山[[広谷]]に移り、ついで[[慈円]]の配慮で[[吉水]]に[[草庵]]を結んで[[布教]]した。建久九年（一一九八）[[九条兼実]]の請を受け『[[無量寿経]]』『[[観経]]』『[[阿弥陀経]]』と[[世親]]の『[[往生論]]』により主著『[[選択集]]』をまとめ、その[[相伝]]が[[弟子]]になされた。[[法然]]の教えは身分や老若男女[[出家]]在家等をこえ、人びとの心をとらえ急激に広まったが、[[次第]]に[[仏教]]界との摩擦も生じ[[法然]]や[[弟子]]の流罪の原因にもなった。[[法然]]は「[[念仏]]を修せん&amp;lt;ruby&amp;gt;砌&amp;lt;rt&amp;gt;みぎり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は皆これわが遺跡」（昭法全七二三）として特定の後継者を定めなかった。『[[没後遺誡文]]』には[[信空]]に委託されたとあるが、教えは入口や奥行の幅のある弾力的な表現がなされたので[[弟子]]たちの間で異論が生じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正嘉元年（一二五七）作の住信『[[私聚百因縁集]]』や正元元年（一二五九）作の[[日蓮]]『一代五時図』、応長元年（一三一一）作の[[凝然]]『[[源流章]]』などには[[聖光]]の[[鎮西義]]、[[隆寛]]の[[多念義]]、[[証空]]の[[西山義]]、[[長西]]の[[諸行本願義]]、[[幸西]]（含法本）の[[一念義]]の五流が示され、永和四年（一三七八）作の静見『[[法水分流記]]』には[[信空]]の[[白川門徒]]、[[親鸞]]の[[大谷門徒]]、[[湛空]]の[[嵯峨門徒]]、[[源智]]の[[紫野門徒]]が加わり九流となっている。[[法然]]滅後は百花繚乱、[[念仏]]の行を失ったと嘆いた[[聖光]]房[[弁長]]は熊本の[[往生院]]で二十数名と共に四十八日の[[別時念仏]]を修し、然師報恩を期して『[[授手印]]』を著し両手印を押して[[鎮西義]]の正統性を強調し伝承の基を築いた。門下の中でも教えをもっとも素直に受けた[[聖光]]は[[記主]][[良忠]]に伝授した。[[良忠]]は上洛し、さらに関東において千葉一族の[[帰依]]を受けて[[布教]]した。ついで鎌倉に出て北条朝直の[[帰依]]のもと[[蓮華寺]]を建て[[布教]]基盤を確立した。博覧強記ともいうべき[[良忠]]は[[浄土]][[祖師]]の著作の注釈を著し、[[浄土宗]]の[[教義]]を体系づけた。ここをもって二祖（[[善導]]、[[法然]]）、三代（[[法然]]、[[聖光]]、[[良忠]]）による[[浄土宗]]義の定判が確立した。[[日蓮]]との抗争もあったが、[[良忠]]の学徳が広く知られ多くの[[帰依]]者を得た。また京都の[[然空]]や[[慈心]]に請われ上洛し、著述と[[伝道]]に生涯をささげた。[[良忠]]には多くの[[弟子]]があり、中でも六人が派祖となった。寂慧[[良暁]]の[[白旗派]]、[[尊観]]の[[名越派]]、[[性心]]の[[藤田派]]の関東三派と[[然空]]の[[一条派]]、[[良空]]の[[木幡派]]、[[了慧]][[道光]]の[[三条派]]の京都三派の六流である。[[良忠]]門下は互いに勢力を張った。[[性心]]は[[良忠]]のもとにあり、[[持阿]]など学僧を育てたが、関東他派に吸収された。[[尊観]]は東北に教線をのばし[[明心]]や[[妙観]]を輩出した。京都では木幡、三条は早くに衰え、[[一条派]]は[[然空]]の[[弟子]][[向阿]]の活躍により[[清浄華院]]を中心として発展した。&amp;lt;ruby&amp;gt;万里&amp;lt;rt&amp;gt;までの&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;小路&amp;lt;rt&amp;gt;こうじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;家が&amp;lt;ruby&amp;gt;[[檀越]]&amp;lt;rt&amp;gt;だんのつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;となり[[次第]]に貴族化した。また[[隆尭]]は近江[[浄厳]]房、[[良如]]は越前[[西福寺]]を建立するなど発展した。[[知恩寺]]はその勢力を背景に[[知恩院]]と抗争したが、[[次第]]に衰えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[良忠]]の後は最年少の[[良暁]]が継ぎ、のち[[名越派]]との論争があったが、[[次第]]に[[白旗派]]へ統摂されることとなった。[[弟子]][[定慧]]は鎌倉で、[[蓮勝]]は太田に[[法然寺]]を開いて[[布教]]した。[[蓮勝]]の[[弟子]][[了実]]は&amp;lt;ruby&amp;gt;[[瓜連]]&amp;lt;rt&amp;gt;うりづら&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;[[常福寺]]を創して教線を張った。[[法然]]が[[浄土宗]]の独立性を強調した後も周囲からは&amp;lt;ruby&amp;gt;附庸宗&amp;lt;rt&amp;gt;ふようしゅう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とみられていたことに対し学問的に位置づけをはかったのが[[了実]]の[[弟子]][[聖冏]]である。[[聖冏]]は[[三巻七書]]を定め[[五重相伝]]の[[伝法]]を確立した。[[弟子]][[聖聡]]は[[増上寺]]を創建し江戸へ進出し将来への発展の礎を築き、門下の[[慶竺]]は京都へ行き[[白旗派]]の進出を果たした。&amp;lt;ruby&amp;gt;[[良肇]]&amp;lt;rt&amp;gt;りょうじょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は[[飯沼]][[弘経寺]]を建立して小田原へ進出、[[了暁]]は三河に進出して大運寺を建立し、ついで[[愚底]]は[[大樹寺]]を建て、松平一族の[[帰依]]を得て近世[[浄土宗]]の発展基盤を確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[徳川家康]]の[[宗教]]政策のもと[[浄土宗]][[寺院]]が全国に成立したが、他宗と同様の勢力として[[浄土宗]]を位置づけたのは[[存応]]であり、徳川勢力のもと[[増上寺]]を[[総録所]]とし関東の基盤を築いた。徳川の[[檀家制度]]で俗化した僧風を[[祖師]]の精神にもどそうとして京都を中心とした[[捨世派]][[興律派]]の粛正的、持律的な運動が起こったが、体制を変えるまでには至らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治維新を迎えると、[[福田行誡]]等による僧風刷新が訴えられ[[教団]]の近代化が求められた。この時代には[[仏教]]界を牽引する多くの学者を輩出し、また[[光明会]]や[[共生会]]、[[真理運動]]等の新しい[[信仰]]運動も起こった。[[法然]]七五〇年[[遠忌]]を契機に分派していた[[寺院]]を[[浄土宗]]に一本化した。八〇〇[[年忌]]には[[信楽]][[玉桂寺]]に伝えられていた[[源智]]の[[願文]]の胎内文書が入った[[阿弥陀仏像]]が[[知恩院]]に寄託され、また[[円光大師]]以来八つ目の[[大師号]]、[[法爾大師]]が諡られた。現代の[[宗教]]離れで、葬儀や墓無用論等がある一方で[[宗教]]が求められている世情をうけて[[浄土宗]]としても対応が求められる時代を迎えている。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：福𠩤隆善】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==［宗務機関］==&lt;br /&gt;
&amp;lt;span style=&amp;quot;border: 1px solid #0000ff&amp;quot;&amp;gt;１&amp;lt;/span&amp;gt;[[浄土宗]]の[[宗教]]上の事務を達成するための執行機関。[[浄土宗]]宗制発布の明治二〇年（一八八七）五月には、[[管長]]が主務大臣の認可を得て上任し、[[管長]]は列祖の洪範を継承し、[[教化]]を純正にして宗制によって一宗を統理した。宗務所は[[浄土宗]]最高の行政宗庁であって、[[管長]]が宗務を総攬し、一宗を統監する所とした。宗務所に法務局・教学部・人事部・社会部・財務部があり、[[執綱]]一名・部長四名・主事一名・管事四名・書記一二名以内および出仕雇員が置かれた。[[執綱]]は[[管長]]を補佐し、命を&amp;lt;ruby&amp;gt;稟&amp;lt;rt&amp;gt;う&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;けて各部の統一を保持し、一切の宗務を総理し、その責に任ずるものであった。教学部長は[[布教]]教育および教[[学階]]に関する事務を監理し、[[布教]]教育に従事する職員を監督した。人事部長は風紀賞罰ならびに[[住職]]の任免その他[[僧籍]]に関する事務を監理した。社会部長は[[教区]]ならびに[[寺院]]仏堂に関する事務を管理し、財務部長は会計出納および[[課金]]義財の徴収に関する事務の管理のほか、地方[[教区]]の財務を監督した（明治四四年〔一九一一〕当時の宗務所職制による）。その後、昭和五年（一九三〇）宗務所職制改正により、宗務所に総務局・教学部・庶務部・財務部・社会課が設置され、[[執綱]]一名・部長三名・主事一名・管事三名・書記一〇名以内および出仕雇員が置かれた。従来の人事部、社会部の職務を庶務部の所管とし、社会課は[[執綱]]の管理に属し、その主任は[[社会事業]]に関する事務を掌り、総務局主事は[[執綱]]直属の書記官長、官房長官の役にあたった。その後職制に変更があり、[[執綱]]は[[宗務長]]、主事は総務課長となり、昭和三七年（一九六二）四月、宗務所は[[宗務庁]]となり、[[宗務総長]]・教学局長・総務局長、教学局に[[教化]]部長・学事部長、総務局に庶務部長・財務部長が置かれ、同四七年一二月には[[宗務総長]]・総務局長・教学局長・財務局長・社会局長・総長公室長を置くことに職制が改正された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[浄土宗]]の宗務は、[[宗務庁]]において執行される。[[宗務総長]]は[[宗議会]]において選出され、[[宗教法人]]「[[浄土宗]]」の代表役員となり、代表役員以外の責任役員を選任する。地方の宗務を処理するため地方を区分して[[教区]]を設け、[[教区]]の長として[[教区]]長を、その事務所として[[教務所]]を置く。海外における[[布教]]のためには[[開教区]]を設けることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[浄土宗]]は、すべての[[僧侶]]および[[檀信徒]]の総意によって運営される。[[僧侶]]の総意を代表する議決機関が[[宗議会]]であり、[[檀信徒]]の総意を反映する諮問機関を[[檀信徒]]評議会という。[[宗務庁]]の処務および職制に関する規程、[[教区]]に関する規程、[[宗議会]]規程、[[檀信徒]]評議会規程は[[宗規]]をもって定めている。宗制によって上任統理した「[[管長]]」は、昭和三七年四月「[[浄土門]]主」と[[改名]]、[[浄土門]]主は[[総本山]]の法統を伝承し、[[浄土宗]]教学の師表として本廟に奉仕するものとし、[[宗務総長]]の申達により儀式の主宰、[[宗義]]の裁定、教諭達示の公布、[[宗議会]]の招集および解散、[[宗議会]]議員選挙の発令、会計[[監査会]]の招集、[[宗務総長]]および役員の認証、[[僧侶]][[分限]]の叙任および[[住職]]・主任・代務者の認証、褒賞に関する事項、[[檀信徒]]評議員の委嘱および[[檀信徒]]評議会の招集、その他必要と認める事項をその職務としており、[[門主]]のすべての行為、宗務責任については[[宗務総長]]が負うものとしている。[[浄土宗]]の[[教義]]に関する[[門主]]の諮問に答えるために、[[勧学寮]]（現・[[勧学職会議]]）が設置され、[[勧学寮]]は[[門主]]の諮問に答申するほか、宗務機関の要求に対して回答すること、宗務機関に対し適宜の処置を要求することなどを職務権限としている。その職務権限に属する事項について宗務機関から制約を受けることはなく、宗務機関の宗務執行に干渉してはならないこととしている。[[宗議会]]において議決する事項は、[[宗綱]]規則の変更ならびに[[宗綱]]規則に基づく規程の制定および変更に関する事項、予算に関する事項、基本財産の設定および変更、ならびに特別会計の設定に関する事項、[[宗教法人法]]第二三条各号に掲げる事項、不動産または財産目録に掲げる宝物以外の基本財産の処分または担保に供すること、重大な負担となる契約をすること、その他この規則に規定する事項および[[宗務総長]]が必要と認めた事項などである。[[宗議会]]は、宗務につき[[宗務総長]]に意見を具申することができ、この法人に包括される個人および団体から提出された建議および請願について審議する。[[檀信徒]]評議会は、本宗の[[教化]]、教勢の振興に関する[[門主]]の諮問に応ずるものであり、また[[門主]]に意見を具申することができる。[[浄土宗]]の宗務の厳正と宗内秩序は、監正審議会および会計[[監査会]]によってその維持をはかる。[[浄土宗]]の財務は、宗務機関の決定によりこれを処理するものとし、歳入、歳出のすべてを予算に編成し、[[宗議会]]の承認を得なければならないとしている。[[門主]]または宗務機関から発する通告は、教諭（[[門主]]が教旨にもとづいて発する文書）、達示（[[宗綱]][[宗規]]則その他の規程の公布および規程の定めにより[[門主]]が発する通達）、[[宗令]]（宗務の施行上必要な事項について[[宗務総長]]が発する定め）、告示（[[宗務総長]]または宗務機関の発する通告）の四種に区分し、『宗報』に掲載して公示する。同四七年以降、宗務機関の細部については改正がなされているが、その梗概については大きな変更なく現在に至っている。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：宇高良哲】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;span style=&amp;quot;border: 1px solid #0000ff&amp;quot;&amp;gt;２&amp;lt;/span&amp;gt;[[浄土宗宗綱]][[宗規]]に則って宗務を執行するための機関。[[浄土宗宗綱]]では、宗務を執行するための[[内局]]、地方の宗務を処理するための[[教区]]と海外における[[布教]]のための[[開教区]]、議決機関としての[[宗議会]]、[[宗義]]に関する[[浄土門]]主の諮問に答えるための[[勧学院]]、宗内秩序を乱す非違行為に対し懲戒処分を決定するための[[監正委員会]]、財務および業務を監査するための[[監査会]]、以上六機関を宗務機関としている。[[宗則]]（[[宗教法人]]「[[浄土宗]]」規則）では宗務機関の宗務執行方法が規定され、[[内局]]は[[宗務総長]]ならびに総務局・教学局・財務局・社会国際局・文化局の各局長、総長公室長および人権同和室長をもって組織することが定められている。また[[宗議会]]、[[監正委員会]]、[[監査会]]の組織および運営方法等が定められている。さらに宗務機関にかかる[[宗規]]として二二の規程、[[宗令]]、規則が定められ、前述の宗務機関に加え、研究機関として[[浄土宗総合研究所]]、その他として宗顧問会などを規定している。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：今岡達雄】&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.168.11.48</name></author>	</entry>

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