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		<title>法然 - 版の履歴</title>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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				<updated>2018-03-30T06:32:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:32時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php?title=%E6%B3%95%E7%84%B6&amp;diff=15626&amp;oldid=prev</id>
		<title>2018年3月30日 (金) 06:32に192.168.11.48による</title>
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				<updated>2018-03-30T06:32:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=ほうねん／法然=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==&amp;lt;span style=&amp;quot;border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;&amp;quot;&amp;gt;一&amp;lt;/span&amp;gt;==&lt;br /&gt;
長承二年（一一三三）四月七日—建暦二年（一二一二）一月二五日。[[浄土宗]]の開祖・[[祖師]]にして、日本[[仏教]]に大きな転換をもたらした[[僧侶]]。「[[法然]]」は[[房号]]であって、&amp;lt;ruby&amp;gt;諱&amp;lt;rt&amp;gt;いみな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は[[源空]]。[[法然]]房[[源空]]が正式な僧名。幼名は[[勢至丸]]。&amp;lt;ruby&amp;gt;諡&amp;lt;rt&amp;gt;おくりな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;として&amp;lt;ruby&amp;gt;[[円光]]&amp;lt;rt&amp;gt;えんこう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;東漸&amp;lt;rt&amp;gt;とうぜん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;慧成&amp;lt;rt&amp;gt;えじょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;弘覚&amp;lt;rt&amp;gt;こうかく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;慈教&amp;lt;rt&amp;gt;じきょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;明照&amp;lt;rt&amp;gt;めいしょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;和順&amp;lt;rt&amp;gt;わじゅん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;法爾&amp;lt;rt&amp;gt;ほうに&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の八つの[[大師号]]をはじめ、慧光[[菩薩]]、華頂尊者、通明国師などがある。また[[黒谷上人]]・[[大谷]][[上人]]・[[吉水上人]]、[[元祖]]（大師）、[[祖師]]とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
==［誕生から[[出家]]まで］==&lt;br /&gt;
長承二年（一一三三）、美作国[[久米南条]]の[[稲岡庄]]（岡山県久米郡久米南町）で誕生。父は&amp;lt;ruby&amp;gt;[[押領使]]&amp;lt;rt&amp;gt;おうりょうし&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;[[漆間時国]]&amp;lt;rt&amp;gt;うるまのときくに&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（&amp;lt;ruby&amp;gt;漆&amp;lt;rt&amp;gt;うるまの&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;時国とも表記）、母は名前は不詳であるが、[[秦氏]]の出身とされる。[[剃刀]]を飲む夢を見て[[法然]]を懐妊し、出生のときには天から二流れの白幡が舞い降りて邸内の椋の木に留まり、七日後に再び天に帰っていったと伝える。[[法然]]九歳のときに父時国が、敵対していた&amp;lt;ruby&amp;gt;[[預所]]&amp;lt;rt&amp;gt;あずかりどころ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の明石&amp;lt;ruby&amp;gt;定明&amp;lt;rt&amp;gt;さだあきら&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の夜討ちを受けて討ち死にする。その際、時国は息子に対し「汝が&amp;lt;ruby&amp;gt;敵討&amp;lt;rt&amp;gt;かたきう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ちをすれば遺恨が遺恨を生むことになる。よって、お前は〈今生の妄縁〉を断って、[[極楽]][[往生]]・自他[[平等]][[利益]]を願え」もしくは「[[出家]]せよ」と遺言したという。これによって[[法然]]は、まもなく同じ美作国にあった[[菩提寺]]の[[観覚]]の[[弟子]]となるが、[[観覚]]はその才能に驚き、[[比叡山]]で学ぶことを勧める。なお、夜討ちを[[法然]]の[[比叡山]]登山後とする伝記もある（『別伝記』法伝全七八七）。&lt;br /&gt;
==［天台修学から[[廻心]]まで］==&lt;br /&gt;
一五歳（もしくは一三歳）にして[[比叡山]]へ登り、まず西塔北谷の[[源光]]の[[弟子]]となるが、[[源光]]も浅学なる自分にはとても指導はできないと考え、[[功徳院]]の[[皇円]]の元に送る。そして久安四年（一一四八）一一月、一六歳にして[[皇円]]（ただし『別伝記』では[[叡空]]）の元で正式に[[出家]][[受戒]]を遂げ、それ以後、天台六〇巻を学ぶ。周りから将来を嘱望された[[法然]]であったが、自身は名利を断ってひとえに[[仏法]]を学ぼうとする志深く、一八歳のとき、ついに[[皇円]]に暇を告げて西塔[[黒谷]]の[[叡空]]の元に[[遁世]]・[[隠遁]]する。[[法然]]と対面した[[叡空]]は、[[法然]]が年若くして[[出家]]した動機を聞き、「[[法然]][[道理]]の&amp;lt;ruby&amp;gt;聖&amp;lt;rt&amp;gt;ひじり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」であるとして「[[法然]]」という[[房号]]を、また師の「[[源光]]」と「[[叡空]]」から一字ずつ取り「[[源空]]」という諱を授けた。二四歳のとき、[[叡山]]を下りて[[嵯峨釈迦堂]]に七日間[[参籠]]した後、[[興福寺]]に[[法相宗]]の[[蔵俊]]、醍醐寺に[[三論宗]]の[[寛雅]]、[[仁和寺]]に[[華厳宗]]の[[慶雅]]といった学匠を訪ね、各宗の教えについて論談するが、[[法然]]の学識にみな舌を巻くばかりであったという。これを「南都遊学」と呼ぶ。ただし、[[法然]]自身はその遊学によっても結局、[[出離]][[解脱]]の道を見出すことができず、[[黒谷]]に帰って[[経蔵]]の[[報恩蔵]]に籠もり、[[一切経]]を開き見ること五遍、その中で『[[往生要集]]』に導かれ、[[聖道]]門を捨てて[[浄土門]]に帰した。ただし、それでも[[往生]]そのものは難しいように思えたので、さらに修学を続け、『[[往生要集]]』に引用された[[善導]]の「[[百即百生]]」の文に注目して[[善導]]の著作を読むこと三遍、ついに「[[一心専念]][[弥陀]][[名号]][[行住坐臥]]不問時節久近念々不捨者是名正定之業[[順彼仏願故]]」の一文に至って[[廻心]]し、「[[専修念仏]]」（「[[一向専修]]」）の教えを見出した。ときに四三歳。現在、[[浄土宗]]ではこの年をもって[[浄土宗]][[開宗]]と見なすとともに、この「[[一心専念]]」の文をもって「[[開宗の文]]」と位置づけている。&lt;br /&gt;
==［下山・弘教から『[[選択集]]』撰述まで］==&lt;br /&gt;
[[廻心]]によって[[法然]]は自身の[[出離]][[解脱]]の道については確信を得たものの、「[[専修念仏]]」の教えが人々に受け容れられるか否かについては迷っていた。するとある夜、夢に[[善導]]が現れ、[[専修念仏]]の教えを弘めようとしていることが尊いから来現したと告げられる。この夢中での[[善導]]との対面を「[[二祖対面]]」という。これによって[[法然]]は[[比叡山]]を下山し、まず[[念仏]]の[[専修]]を実践していた[[遊蓮房]]のいる西山の[[広谷]]に向かう。その[[遊蓮房]]の[[往生]]を見届け、[[専修念仏]]の正しさを確信した[[法然]]は、[[東山]]の[[大谷]]の[[吉水]]に居を移し、これ以降、一時的に嵯峨、[[賀茂の河原屋]]、[[小松谷]]などに住した以外は、[[吉水]]を拠点として弘教してゆくこととなる。文治二年（一一八六、一説には文治五年）、当時五四歳であった[[法然]]は、後に天[[台座]]主となる[[顕真]]の要請によって、[[大原]]で[[重源]]等の諸宗の学匠を前に自らの教えを述べ、それに関して[[談義]]を行った。これを「[[大原問答]]」（もしくは「[[大原談義]]」）という。さらに同六年二月、[[法然]]は[[重源]]の請いによって、再建中の[[東大寺]]で、南都の[[僧侶]]たちを前に「[[浄土三部経]]」の講義を行った。これは「[[東大寺講説]]」などと呼ばれる。これら二つの出来事を境に、多くの[[門弟]]や[[信者]]が[[法然]]の門を叩くようになる。おそらく[[法然]][[教団]]のようなものが成立したのは、この頃からと考えられる。六〇歳代中頃から[[法然]]は&amp;lt;ruby&amp;gt;[[瘧病]]&amp;lt;rt&amp;gt;おこりやまい&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;等の病気に悩まされるようになるが、特に六五歳の建久八年（一一九七）秋から翌年にかけての病状はかなり重篤で、四月には『&amp;lt;ruby&amp;gt;[[没後遺誡文]]&amp;lt;rt&amp;gt;もつごゆいかいもん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;』という遺書までしたためられた。そうした中にあって、[[九条兼実]]の要請をうけて著されたのが『&amp;lt;ruby&amp;gt;[[選択]]&amp;lt;rt&amp;gt;せんちゃく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;[[本願]][[念仏]]集』（『[[選択集]]』）である。[[弥陀]]・[[釈迦]]・諸仏が[[称名念仏]]のみを「[[選択]]」していることを示して、「[[専修念仏]]」の根拠の確立を目指した書物といえる。なお、執筆は同九年春頃とされる場合が多い。この『[[選択集]]』執筆と同時並行的に、[[法然]]は[[念仏]]中に[[極楽]]の有り様が目の前に現れるという「[[三昧発得]]」の体験を持つようになる。「[[三昧発得]]」はこの後も断続的に現れ、建仁二年（一二〇二）、[[法然]]七〇歳のときには、ついに[[阿弥陀仏]]にもまみえている。この体験を記録したのが『[[三昧発得記]]』である。&lt;br /&gt;
==［[[法難]]から[[往生]]まで］==&lt;br /&gt;
このような中にあって、[[法然]][[教団]]は拡大を続けたようであるが、[[法然]]七〇歳前後を境として、他宗からの[[法然]][[教団]]批判が顕在化してくる。批判の対象は直接には一部の[[門弟]]の「他宗誹謗」「造悪&amp;lt;ruby&amp;gt;無礙&amp;lt;rt&amp;gt;むげ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（悪を造っても[[念仏]]さえすれば[[往生]]には差し障りはないということ）・[[破戒]]為宗（むしろ[[破戒]]を教えとして勧めること）」といった行動であったが、その元凶は[[法然]]の[[専修念仏]]の教えそのものにあるとして、[[法然]]自身および[[法然]][[教団]]全体が批判されるようになっていった。まず[[法然]]七二歳の元久元年（一二〇四）一〇月には[[比叡山]]の[[衆徒]]が[[念仏]]を&amp;lt;ruby&amp;gt;停止&amp;lt;rt&amp;gt;ちょうじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すべきことを天[[台座]]主に訴えた。それに対し、[[法然]]は『[[七箇条制誡]]』をしたためて[[門弟]]を誡めると同時に、『[[送山門起請文]]』を著して[[比叡山]]に対して弁明を行った。それによって一時的に批判は沈静化したが、しばらくすると[[門弟]]の言動は元に復したため、今度は[[興福寺]]の[[貞慶]]が『[[興福寺奏状]]』を著すなど、[[興福寺]]が主となって朝廷に[[念仏]]禁止と[[法然]]等の処罰を要請した。以上を「[[元久の法難]]」という。ただ、[[興福寺]]側からの要請にもかかわらず、朝廷は[[念仏]]禁止には消極的で、[[念仏]]禁止や[[門弟]]等の処罰の宣旨は出すものの、ほとんど実行には移されなかったらしい。ところが、建永元年（一二〇六）、[[法然]]七四歳のとき、[[門弟]]の[[住蓮]]・[[安楽]]（&amp;lt;ruby&amp;gt;[[遵西]]&amp;lt;rt&amp;gt;じゅんさい&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;）が&amp;lt;ruby&amp;gt;鹿&amp;lt;rt&amp;gt;しし&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ヶ&amp;lt;ruby&amp;gt;谷&amp;lt;rt&amp;gt;たに&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;で修していた[[六時礼讃]]に、[[後鳥羽上皇]]が寵愛していた女官二人が上皇の留守を見計らって参加し（もしくは御所内に二人の僧を招き入れ）、[[出家]]してしまうという事件が起こった。上皇はこれに激怒し、翌二年春、[[住蓮]]・[[安楽]]等四名を死罪、[[法然]]・[[親鸞]]等八名を配流に処した。[[法然]]はこの時、「藤井元彦」の[[俗名]]を与えられて土佐へ（ただし実際には、九条家の領地の讃岐へ）配流となった。これを「[[建永の法難]]」（[[真宗]]では「&amp;lt;ruby&amp;gt;承元&amp;lt;rt&amp;gt;じょうげん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の[[法難]]」）という。なお、『[[四十八巻伝]]』などによると、配流の途次、高砂で漁師夫妻を、また室津では遊女を[[教化]]したと伝える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[法然]]は幸いその年の一二月（八月説や承元三年〔一二〇九〕八月説もあり）には畿内まで帰ることは許されたものの、入洛は[[許可]]されず、摂津国&amp;lt;ruby&amp;gt;箕面&amp;lt;rt&amp;gt;みのお&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;[[勝尾寺]]&amp;lt;rt&amp;gt;かちおでら&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に四年間逗留し、ようやく建暦元年（一二一一）一一月、帰洛を許された。そして現在の[[知恩院]][[勢至堂]]のあたりに住していたが、翌二年一月二五日、[[往生]]を遂げた。ときに[[法然]]八〇歳。『[[御臨終日記]]』や伝記には、臨終に際して[[奇瑞]]等が種々現れたと記されている。なお、遺骸は住居の東側の崖の上に[[埋葬]]され、そこに建つのが現在の[[御廟]]である。&lt;br /&gt;
==［[[門弟]]・[[信者]]］==&lt;br /&gt;
最初期からの[[門弟]]としては[[信空]]・[[感西]]などがいるが、多くが「[[大原問答]]」「[[東大寺講説]]」以降、即ち[[法然]]の五〇代後半以降に入門している。主な[[門弟]]をおおよその入室順に記すと、[[証空]]・[[隆寛]]・[[源智]]・[[聖光]]・[[幸西]]・[[親鸞]]・[[禅勝房]]・[[長西]]などがあげられる。この他、[[遵西]]・[[行空]]・[[湛空]]・[[信寂房]]・[[乗願房]]（[[宗源]]）・[[金光]]・[[空阿弥陀仏]]なども知られる。また、[[法然]][[教団]]で重きをなした[[聖覚]]、および聖として名高い高野の[[明遍]]なども、[[法然]]の教えを受けた者ということができよう。一方、在家[[信者]]としては、まず関白にもなった[[九条兼実]]が有名。「[[東大寺講説]]」と前後して、[[法然]]との関係が始まっている。その他、伝記によると、[[藤原経宗]]や[[藤原隆信]]なども[[法然]]に[[帰依]]したとされる。また、[[正如房]]が[[式子内親王]]であるとするならば、[[式子内親王]]も[[法然]]に[[帰依]]した[[念仏行者]]であったことになる。また、[[法然]]が兼実および兼実の娘である&amp;lt;ruby&amp;gt;[[宜秋門院]]&amp;lt;rt&amp;gt;ぎしゅうもんいん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に戒を授けたのは確実で、この他、鳥羽天皇の皇女[[上西門院]]への[[説戒]]をはじめ、[[高倉天皇]]への[[説戒]]、後白河上皇の臨終の[[善知識]]等、[[後鳥羽上皇]]やその中宮である[[修明門院]]への[[授戒]]なども伝記には記されている。ただし、天皇・上皇への[[説戒]]・[[授戒]]の真偽は不明。武士の[[信者]]は大半が、源平の戦いが一段落し、関東武者に上洛の機会が増えた建久三年（一一九二）、[[法然]]六〇歳のころ以降に[[帰依]]している。有名な者としては、熊谷直実・津戸三郎・大胡太郎・渋谷[[道遍]]・甘粕太郎・薗田太郎・宇都宮頼綱などがあげられる。この他、庶民の[[帰依]]者も多かったであろうが、伝記では&amp;lt;ruby&amp;gt;[[陰陽師]]&amp;lt;rt&amp;gt;おんみょうじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;[[阿波介]]&amp;lt;rt&amp;gt;あわのすけ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;や盗賊であった[[天野四郎]]などが紹介されている。&lt;br /&gt;
==［著作］==&lt;br /&gt;
四篇の『[[往生要集]]』釈書類、[[東大寺]]での講説の記録である「[[三部経釈]]」、[[遵西]]の父中原&amp;lt;ruby&amp;gt;師秀&amp;lt;rt&amp;gt;もろひで&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の[[逆修]]の際の[[説法]]集である『[[逆修説法]]』、そして『[[選択集]]』などがある。また『[[一紙小消息]]』『[[一枚起請文]]』をはじめとする[[法語]]・聞書・[[消息]]（手紙）・[[問答]]類なども多く遺されている。ただし、真筆で現存するものはごくわずかである。一方、[[法然]]遺文を輯録した遺文集としては[[醍醐本]]『[[法然上人伝記]]』（通称『[[醍醐本]]』）、『[[西方指南抄]]』、『[[黒谷上人語灯録]]』（『[[漢語灯録]]』『[[和語灯録]]』）がある。また、それらをもとに近代以降に編纂された著作全集として、明治期刊の『[[法然上人全集]]』があるが、現在ではそれを全面的に改訂した『[[昭和新修法然上人全集]]』（『昭法全』）が用いられる。&lt;br /&gt;
==［思想とその意義］==&lt;br /&gt;
[[末法]]においては、[[浄土門]]の教えでないと[[凡夫]]が[[悟り]]に至ることなどほとんど不可能として[[浄土門]]の教えを勧めるが、その際、[[往生]]するためには[[三心]]を具えて[[一向]]に[[称名念仏]]を称えるべきであると説く。いわゆる「[[専修念仏]]」の教えであって、「専らに[[称名念仏]]を称えよ」もしくは「専らに[[称名念仏]]を称えれば誰もが必ず[[往生]]できる」という教えといえる。この教えは、それまでの[[仏教]]（[[浄土教]]も含む）が行中心の教えであったのに対して、信を重視した点に特色がある。ただし、同時に[[念仏]]の相続（続けること）も強く勧めており、決して行を軽視しているわけではない。[[一念]]でも[[往生]]できると信じて、[[念仏]]を続けるべしというように、信と行の両方を重視する教えと見なすことができる。また、平安時代の[[仏教]]が基本的に、教え・行ともに[[雑修]]であったのに対し、[[法然]]が[[専修]]を説いた点も重要である。[[鎌倉仏教]]は総じて[[専修]]主義であるが、そのあり方を最初に切り開いたのが[[法然]]であり、結果として日本[[仏教]]に大きな転換をもたらすこととなった。さらに[[浄土教史]]の面からして、それまで他宗に付随して[[信仰]]されていた[[浄土]][[信仰]]を「[[浄土宗]]」として独立させたことも注目されよう。&lt;br /&gt;
==［[[布教]]］==&lt;br /&gt;
それまで[[僧侶]]の[[布教]]対象が貴族や権力者に片寄りがちであったのに対し、[[法然]]は武士や一般庶民にも分け隔てなく[[布教]]した。また、貴族女性のみならず、武士の妻などの一般女性に[[布教]]したことも注目される。[[法然]]以前には稀であった和語の[[法語]]が[[法然]]においては多数見られるのも、[[布教]]対象にこのような一般層が含まれていたことと深く関わっているのであろう。さらに、郵便制度（駅路の法）の整備とあいまって、手紙を用いた[[布教]]も頻繁に行っているが、これもやはり、[[法然]]以前にはほとんど見られず、逆に[[法然]]以降は一般的な[[布教]]方法となっていった点といえる。そのようなことからして、[[法然]]は思想のみならず、[[布教]]の面でも、日本[[仏教]]史上、大きな革新をもたらしたとみなすことができる。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【資料】昭法全、法伝全&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参考】田村円澄『法然』（『人物叢書』三六、吉川弘文館、一九五九）、梶村昇『法然』（『角川選書』三六、角川書店、一九七〇）、細川行信『法然　その生涯と教え』（法蔵館、一九七九）、大橋俊雄『法然』（講談社、一九九八）、梅原猛『法然』（『浄土仏教の思想』八、同、二〇〇〇）、同『法然の哀しみ』（『梅原猛著作集』一〇、小学館、二〇〇〇）、中井真孝編『念仏の聖者　法然』（『日本の名僧』七、吉川弘文館、二〇〇四）、伊藤唯眞『法然の世紀　源平争乱の世に万民救済を説く』（『浄土選書』三〇、浄土宗、二〇〇一）、『法然』（「別冊太陽　日本のこころ」一七八、平凡社、二〇一一）、中井真孝『絵伝にみる法然上人の生涯』（法蔵館、二〇一一）【図版】巻末付録&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：安達俊英】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
	&lt;br /&gt;
==&amp;lt;span style=&amp;quot;border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;&amp;quot;&amp;gt;二&amp;lt;/span&amp;gt;==&lt;br /&gt;
田村[[円澄]]著。日本歴史学会編。昭和三四年（一九五九）一二月初版、同六三年六月新装版、吉川弘文館刊。「人物叢書」のうちの一書。[[法然]]伝記に全面的に依るのではなく、他の史料も積極的に用いながら、当時の時代背景や環境を考慮に入れて、[[法然]]の行状について論じ、末尾に系図、略年譜、参考文献が付される。[[法然]]に求道者と[[救済]]者との二面性があるとし、この点を[[意識]]しながら論じている。内容は平易で、初学者向けといえよう。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：角野玄樹】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
	&lt;br /&gt;
==&amp;lt;span style=&amp;quot;border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;&amp;quot;&amp;gt;三&amp;lt;/span&amp;gt;==&lt;br /&gt;
梶村昇著。昭和四五年（一九七〇）六月、角川書店発行。『角川選書』三六。[[法然]]の生涯について考察する。末尾に「[[法然]]の著作と諸伝記」と[[法然]]関係年表が付される。著作方針は、[[法然]]の生涯について、日本[[仏教]]史との関連において[[法然]]を把握することである。また本書は、[[法然]]の[[信仰]]思想が人々にとっていかなる意味があるのかも考察する。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：角野玄樹】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
	&lt;br /&gt;
==&amp;lt;span style=&amp;quot;border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;&amp;quot;&amp;gt;四&amp;lt;/span&amp;gt;==&lt;br /&gt;
[[大橋俊雄]]著。昭和四五年（一九七〇）一月、評論社刊。シリーズ「日本人の行動と思想」のうちの一書。[[法然]]の行状と思想を解説し、末尾に主要参考文献、略年譜、索引が付される。著作方針として、従来の[[宗祖]]伝解説に対して批判的な立場に立ち、[[法然]]の「教説を行動のからみあいのなかに求めようとした」とある。平易な内容で初学者向けといえる。&lt;br /&gt;
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【執筆者：角野玄樹】&lt;br /&gt;
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==&amp;lt;span style=&amp;quot;border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;&amp;quot;&amp;gt;五&amp;lt;/span&amp;gt;==&lt;br /&gt;
梅原猛著。『[[浄土仏教の思想]]』八。平成一二年（二〇〇〇）九月、講談社刊。[[法然]]の[[由緒寺院]]の実地調査から[[法然]]の人生とその思想の全体像を述べる。著者は「時国殺害事件」に対し、通説とは異なる視点を示す。第一章から第八章までは、実地調査を通して得た記録を『中外日報』に連載し、それを基に構成されている。第九章以降は本書への書き下ろしで、「[[大原問答]]」以降の[[法然]]を新しく解明したとする。のちに『[[法然]]十五歳の闇』上・下（角川ソフィア文庫、二〇〇六）として文庫化された。&lt;br /&gt;
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【執筆者：高瀬麻衣】&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.168.11.48</name></author>	</entry>

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