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		<title>末法 - 版の履歴</title>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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				<updated>2018-03-30T06:34:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:34時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

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		<title>2018年3月30日 (金) 06:34に192.168.11.48による</title>
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				<updated>2018-03-30T06:34:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=まっぽう／末法=&lt;br /&gt;
[[釈尊]]の在世から長い時間が経過したために[[仏教]]が&amp;lt;ruby&amp;gt;廃&amp;lt;rt&amp;gt;すた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れ、その教えは残っていても、正しく行じる者や証（さとり）を得る者のいない、荒廃した時代。[[仏教]]の[[三時]]説における三番目の時代で、[[法然]]当時や現今もこれに含まれる。[[三時]]説とは、[[釈尊]]の[[入滅]]を起点に、[[仏教]]が完全に滅びる[[法滅]]までの時間を、[[正法]]・[[像法]]・[[末法]]（正・像・末とも略す）の三段階に区切る時代区分である。[[釈尊]]の[[入滅]]の後しばらくは、[[釈尊]]が説いた通りの正しい教えに従って[[修行]]し、証果を得る者のいる[[正法]]の時代が続く。しかしその後、教と行は正しく維持されるが、証を得る者がいなくなる[[像法]]の時代、さらには教のみが残る[[末法]]の時代へと移っていき、ついには[[法滅]]に至るという。インドでは[[釈尊]]の[[入滅]]を契機として、時間の経過に伴う[[仏教]]の衰退や社会の荒廃を憂慮する思想が徐々に説かれ始めた。具体的には、時代が下るとともに五つの濁りが増していくという[[五濁]]説や、[[正法]]が廃れて相似の法である[[像法]]に取って代わられるという像[[法説]]、五百年もしくは千年の後に[[正法]]が滅尽するという[[法滅]]説などである。六世紀には、凶暴なエフタル族が北西インドに侵入して[[仏教]]を迫害し、その世相が経典にも反映して危機思想がより生々しく語られるようになった。ただし正・像・末という[[三時]]説そのものは、中国で成立したと考えられる。インドでエフタル族の迫害を目の当たりにした那連提耶舎が、天保七年（五五六）北斉に渡り、時代の悪化や[[法滅]]について説く経典を続けて漢訳した。中でも天統二年（五六六）に訳出した『&amp;lt;ruby&amp;gt;大集経&amp;lt;rt&amp;gt;だいじっきょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;』&amp;lt;ruby&amp;gt;月蔵分&amp;lt;rt&amp;gt;がつぞうぶん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;には、五百年ごと五段階の時代によって、[[仏教]]と[[世間]]が[[次第]]に荒廃するという五堅固説が説かれる。すなわち①覚りを得る者が多い[[解脱]]堅固②[[禅定]][[三昧]]を修する者が多い[[禅定]]堅固③経典をよく[[読誦]]・聴聞する者が多い多聞堅固④[[寺院]]や堂塔の建立が盛んな造塔堅固⑤論争ばかりが激しくなり、正しい[[仏法]]は隠没してしまう[[闘諍堅固]]である。これらの経典が輸入・漢訳されるに伴い像[[法説]]と[[法滅]]説とが結合し、[[三時]]説として説かれるようになった。それを初めて明文化したのが、南岳慧思の『立[[誓願]]文』である。そこでは「[[正法]]五百年・[[像法]]千年・[[末法]]万年」と[[三時]]の年数が定められるとともに、『本起経』に基づいて[[仏滅]]年代が計算され、慧思が生まれた北魏宣武帝延昌四年（五一五）はすでに[[末法]]の八二年に当たると記されている。また北周・天和五年（五七〇）に漢訳された『大乗同性経』下には「一切の[[正法]]、一切の[[像法]]、一切の[[末法]]（本によっては滅法とある）」という表現が見える。当時の中国は戦乱や飢饉によって社会が荒廃しており、さらに建徳三年（五七四）には北周武帝による[[廃仏毀釈]]事件が起きたため、[[末法]]到来が人々に強く実感された。その危機感の中で新たな[[時機相応]]の[[仏教]]が模索され、信行は[[三階教]]を提唱し、また[[道綽]]はその著『[[安楽集]]』上に[[聖道]]・[[浄土]]二門判を説き、「その[[聖道]]の一種は、今の時証しがたし。一には[[大聖]]を去ること遥遠なるに由る。二には理は深く解は微なるに由る…当今は[[末法]]、現にこれ[[五濁]]悪世なり。ただ[[浄土]]の一門のみ有りて通入すべき路なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0693 浄全一・六九三上]）と表明した。ところで慧思以来、[[末法]]の期間は一万年とほぼ固定されたが、[[正法]]・[[像法]]については一定せず、[[正法]]五百年・[[像法]]五百年説や[[正法]]千年・[[像法]]千年説なども見られる。その後、唐の基が[[教・行・証]]と結びつけて説明するに至り、正・像・末の意味内容はほぼ固定された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では『日本霊異記』がいち早く[[正法]]五百年・[[像法]]千年説に則り、延暦六年（七八七）はすでに[[末法]]であると表明している。その後平安期後半に[[源信]]の『[[往生要集]]』や[[最澄]]に仮託した『[[末法灯明記]]』が著されるに伴い、[[末法]]思想は世に広く浸透した。そこでは[[正法]]千年・[[像法]]千年説を取り、周&amp;lt;ruby&amp;gt;穆王&amp;lt;rt&amp;gt;ぼくおう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;五二年（紀元前九四九）の[[仏滅]]説から計算して永承七年（一〇五二）を入[[末法]]の年と見なす。そして実際にその年代に至ると天変地異が続発し、また政治の中心が貴族から武士へと移る過渡期とも重なり騒乱が絶えなかった。混迷の要因は[[末法]]にあるとしてその克服が[[仏教]]に求められ、顕密[[仏教]]の活性化が叫ばれるとともに、新たな日本独自の[[仏教]]の誕生が促された。[[法然]]は『[[選択集]]』の第一章に[[道綽]]の聖浄二門判を掲げて[[浄土宗]]の[[立教開宗]]を宣言し、また第六章「[[末法]]万年に&amp;lt;ruby&amp;gt;特&amp;lt;rt&amp;gt;ひと&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り[[念仏]]を留むる篇」に、[[末法]]の一万年のみならず[[法滅]]の後百年まで[[浄土門]]の[[念仏]]の教えは残ると説く。ところで[[道綽]]は聖浄二門判に先んじて「何に因ってか今に至るまで、なお自ら[[生死]]に[[輪廻]]して、[[火宅]]を出でざるや…二種の勝法を得て[[生死]]を&amp;lt;ruby&amp;gt;排&amp;lt;rt&amp;gt;はら&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;わざるに由る」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0692 浄全一・六九二下]～三上）と[[問答]]を立て、[[法然]]も「世世生生を経て[[如来]]の[[教化]]にも[[菩薩]]の弘経にもいくばくぞか遇いたてまつりたりけん…我らは[[信心]]疎かなる故に今に[[生死]]に&amp;lt;ruby&amp;gt;止&amp;lt;rt&amp;gt;とどま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れるなるべし」（『[[念仏大意]]』聖典四・三四九）と説く。[[末法]]の世に生を受けたのは、自身が[[仏道]]を求めずに[[生死]][[輪廻]]を繰り返してきてしまったためと受け止めている。[[末法]][[意識]]とは自己を取り囲む外的状況に対する危機[[意識]]であるが、その責任を自己の内に見出すことで主体的な[[宗教]]課題ともなる。なお[[親鸞]]や[[日蓮]]、[[貞慶]]や[[明恵]]なども[[末法]]を課題としているが、[[道元]]は問題視しない。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参考】山田竜城「末法思想について—大集経の成立問題—」（印仏研究四、一九五六）、藤本淨彦「浄土教における宗教的主体性の一断面—末法思想の宗教哲学的考察」（『浄土宗学研究』四、一九六九）、佐藤成順『中国仏教思想史の研究』（山喜房仏書林、一九八〇）、福𠩤隆善「浄土教における時機観」（日仏年報四九、一九八四）、平雅行『日本中世の社会と仏教』（塙書房、一九九二）&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参照項目】➡[[三時]]&amp;lt;span style=&amp;quot;border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;&amp;quot;&amp;gt;一&amp;lt;/span&amp;gt;、[[五濁]]、[[聖道門・浄土門]]&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：齋藤蒙光】&lt;/div&gt;</summary>
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