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		<title>指方立相 - 版の履歴</title>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:26時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

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		<title>2018年3月30日 (金) 06:26に192.168.11.48による</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=しほうりっそう／指方立相=&lt;br /&gt;
[[阿弥陀仏]]により具現化された仏身および[[浄土]]の[[有相]]が、[[釈尊]]により方角（[[西方]]）と相を通じて説示されたこと。[[善導]]が『[[観経疏]]』[[定善]]義第八[[像想観]]釈において、『[[観経]]』の「是心[[作仏]]、是心是仏」の部分を解説する際に説示した「また今この[[観門]]等は、ただ方を指し相を立てて（[[指方立相]]）、心を&amp;lt;ruby&amp;gt;住&amp;lt;rt&amp;gt;とど&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;めて境を取らしむ」（聖典二・二六九／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0047 浄全二・四七下]）という一文が典拠であり、[[西方]][[極楽]][[世界]]の[[有相]]を解説する最も重要な根拠となるとともに、古来、多くの議論が重ねられてきた。[[善導]]は『[[観経]]』第八[[像想観]]において説示されている「[[法界身]]」および「是心[[作仏]]、是心是仏」という経文の[[解釈]]から派生して、[[像想観]]さらには[[定善十三観]]をどのように[[解釈]]すべきかを議論している。ここで[[善導]]は「ある実践者は、この『[[観経]]』第八[[像想観]]に説示されている内容について、これを〈[[唯識]][[法身]]之観〉として理解し、あるいは〈自性[[清浄]][[仏性]]観〉として理解しているが、このことは大変な誤解である。この[[解釈]]は全くの誤りであり、少しも第八[[像想観]]に説示されている内容と相似するようなものではない」（趣意）と述べている。この「[[唯識]][[法身]]之観」とは、&amp;lt;ruby&amp;gt;阿梨耶識&amp;lt;rt&amp;gt;ありやしき&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;依持説と[[如来蔵]]説を前提として「是心[[作仏]]、是心是仏」を理解したもので、[[如来蔵]]が顕現することにより[[法身]]が現成すると理解したものと考えられる。また「自性[[清浄]][[仏性]]観」は『[[起信論]]』を典拠とした[[解釈]]で、「是心[[作仏]]、是心是仏」を[[衆生]]心であるとともに[[自性清浄心]]として理解する、いわば[[仏性]]の顕現を前提としたものと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした理解に対して[[善導]]は「是心[[作仏]]、是心是仏」に関して、「〈是心[[作仏]]〉と言うは、自の[[信心]]に依って相を縁ずること作のごとし。〈是心是仏〉と言うは、心能く仏を想すれば、想に依って仏身現ず。すなわち、この心、仏なり。この心を離れて、外、更に異仏無ければなり」（聖典二・二六九／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0047 浄全二・四七下]）と述べ、「是心」を「自らの[[信心]]」として[[解釈]]し、「是仏」を「仏、自らの影現」として理解したと考えられる。つまり[[善導]]は[[衆生]]の願[[往生]]心という[[阿弥陀仏]]を想う心そのものを、[[衆生]]と[[阿弥陀仏]]との接点であり、相互に知見する場所と捉えている。さらに[[善導]]は先述の批判理由について、「『[[観経]]』第八[[像想観]]において、先に仏の像を想うことを説示し、また[[阿弥陀仏]]が[[三十二相]]を仮に立てることは、[[真如]][[法界身]]を[[凡夫]]が具体的な相を有するものと[[認識]]できず、また具体的な身を有するものと感知することができないということに起因している。そもそも、[[法身]]は色を有しておらず、[[凡夫]]の眼による[[認識]]対象ではなく、しかも何者にも比較の仕様がない存在である。それ故、[[虚空]]をもって、[[法身]]の体として比喩表現を用いる」（趣意）と説示している。その上で「また今この[[観門]]等は、ただ方を指し相を立てて、心を&amp;lt;ruby&amp;gt;住&amp;lt;rt&amp;gt;とど&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;めて境を取らしむ」と述べ、「また、今、この『[[観経]]』第八[[像想観]]などの内容は、ただ、方向を指示し、具体的な相を立てることによって、心を[[阿弥陀仏]]の一箇所に留まらせ、[[阿弥陀仏]]を実際の[[認識]]対象として感知することのみを目的としており、決して、相が無い境界や念から離れた境界を明かすような内容ではない」（趣意）と説示している。すなわち、「唯、指方、立相、住心而取境」という一文は、[[釈尊]]が[[西方]]を示し、その先に[[阿弥陀仏]]が自らの仏身と[[浄土]]の「相」を提示し、両者がそれぞれに、[[衆生]]が自らの視覚対象として[[阿弥陀仏]]および[[極楽浄土]]を具体的かつ実際に[[認識]]することが可能となるように、[[衆生]]に対して具体的な方向性と[[有相]]性を説示していると見られる。すなわち、[[善導]]は[[指方立相]]説における仏と[[衆生]]との関係性を、「[[釈尊]]と[[阿弥陀仏]]が共に[[衆生]]のために法門を開き、[[衆生]]は自らの心において[[阿弥陀仏]]に想いを&amp;lt;ruby&amp;gt;繫&amp;lt;rt&amp;gt;か&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ける」と説示していると考えられる。つまり「[[指方立相]]」とは、『[[観経]]』において説示されている法門は、ただ[[釈尊]]により方角が指示され、[[阿弥陀仏]]により具現化されている仏身および[[浄土]]の[[有相]]を[[衆生]]に開示することのみを目的とし、未[[来世]]一切の[[凡夫]]を対象とした[[浄土]]法門の開示として捉えることができる所説である。&lt;br /&gt;
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【参考】柴田泰山『善導教学の研究』（山喜房仏書林、二〇〇六）&lt;br /&gt;
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【執筆者：柴田泰山】&lt;/div&gt;</summary>
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