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		<title>往生 - 版の履歴</title>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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				<updated>2018-03-30T06:21:07Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:21時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php?title=%E5%BE%80%E7%94%9F&amp;diff=1850&amp;oldid=prev</id>
		<title>2018年3月30日 (金) 06:21に192.168.11.48による</title>
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				<updated>2018-03-30T06:21:07Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=おうじょう／往生=&lt;br /&gt;
[[現世]]での命終の後、他の[[世界]]に往き生まれること。通常は、[[極楽浄土]]または他の[[浄土]]に生を受けることをいう。この語は元来、他の[[世界]]に生まれることを指したが、[[浄土]]思想の発展に伴って[[穢土]]（[[娑婆]]）から仏の[[世界]]である[[浄土]]に往き生まれることを意味する語となった。したがって、[[往生]]とは単なる生まれ変わりをいうのではなく、[[生死]][[解脱]]を意味する語である。&lt;br /&gt;
==［経典に説かれる各種[[往生]]とその勝劣］==&lt;br /&gt;
（１）〈[[極楽浄土]]への[[往生]]を説くもの〉『[[無量寿経]]』下には、「あらゆる[[衆生]]、その[[名号]]を聞きて、[[信心]]歓喜して、[[乃至]][[一念]]、[[至心]]に[[回向]]して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち[[往生]]を得て、[[不退転]]に住す」（聖典一・二四九／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0019 浄全一・一九]）とあり、[[念仏]][[衆生]]の[[往生]]とそれによって[[不退転]]位に入ることが説かれている。『[[阿弥陀経]]』には「もし善男子・[[善女]]人あって、[[阿弥陀仏]]を説くを聞きて、[[名号]]を&amp;lt;ruby&amp;gt;執持&amp;lt;rt&amp;gt;しゅうじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すること、もしは一日…もしは七日、[[一心不乱]]なれば、その人命終の時に臨んで、[[阿弥陀仏]]、諸もろの[[聖衆]]とともに、現にその前に&amp;lt;ruby&amp;gt;在&amp;lt;rt&amp;gt;ましま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;す。この人終わる時、心&amp;lt;ruby&amp;gt;[[顚倒]]&amp;lt;rt&amp;gt;てんどう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;せず、すなわち[[阿弥陀仏]]の[[極楽]][[国土]]に[[往生]]することを得」（聖典一・三一八～九／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0054 浄全一・五四]）とあり、[[念仏]][[衆生]]の命終に[[阿弥陀仏]]が[[来迎]]され、心乱れることなく[[極楽]]に[[往生]]できることが説かれている。『[[観経]]』には「[[三心]]を具する者は、必ずかの国に生ず」（聖典一・三〇六／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0046 浄全一・四六]）とあり、[[至誠心]]・[[深心]]・[[回向発願心]]の[[三心]]を[[具足]]した者の[[往生]]が説かれている。また『[[法華経]]』第六[[随喜]][[功徳]]品には「ここにおいて命終せば、すなわち[[安楽]][[世界]]の[[阿弥陀仏]]の大[[菩薩]]衆に&amp;lt;ruby&amp;gt;[[囲繞]]&amp;lt;rt&amp;gt;いにょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;せられる住処に往きて、[[蓮華]]の中の宝座の上に生ず」（[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php?vuseid=09.0054正蔵九・五四）]とあり[[浄土]][[往生]]が説かれている。&lt;br /&gt;
（２）〈[[弥勒]]の&amp;lt;ruby&amp;gt;兜率&amp;lt;rt&amp;gt;とそつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;天への[[往生]]（[[上生]]）を説くもの〉『[[観弥勒菩薩上生兜率天経]]』には、「まさに念をかけ、仏の形像を念じ、[[弥勒]]の名を称すべし。かくのごとき等の輩、もし[[一念]]の&amp;lt;ruby&amp;gt;頃&amp;lt;rt&amp;gt;あいだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に八戒斎を受け、もろもろの[[浄業]]を修し、[[弘誓]]の願を発さば、命終の後、譬えば壮士の&amp;lt;ruby&amp;gt;臂&amp;lt;rt&amp;gt;ひじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を屈申する頃のごとく、すなわち兜率陀天に[[往生]]することを得」（[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V14.0420a.html 正蔵一四・四二〇上]）、さらには「もし[[弥勒]][[菩薩]][[摩訶薩]]の名を聞くを得る者あって、聞きおわりて歓喜恭敬[[礼拝]]せば、この人命終に[[弾指]]のあいだのごとくにすなわち[[往生]]を得」（[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V14.0420b.html 正蔵一四・四二〇中]）とあり、観想・[[称名]]・[[聞名]]等により[[弥勒]]の[[兜率天]]へ[[往生]]することが説かれている。&lt;br /&gt;
（３）〈[[十方]]の[[浄土]]への[[往生]]を説くもの〉『[[灌頂]]随願[[往生]][[十方浄土]]経』には、[[十方浄土]][[往生]]が示され、さらに「もし[[四衆]]男女、もし命いまだ終らず、もしは已に終れる者、われ今まさにもろもろの福業を修することを勧むるによって[[十方]]諸仏刹に生ずることを得べし」（[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V21.0529c.html 正蔵二一・五二九下]）と説き、もろもろの福業を修して[[十方]]の[[浄土]]に[[往生]]するとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの[[浄土]]への[[往生]]について、[[道綽]]は『[[安楽集]]』第二大門において、兜率・[[十方浄土]]と[[西方浄土]]への[[往生]]について論じている。まず兜率と[[西方浄土]][[往生]]については、①[[兜率天]][[往生]]者は退転するのに対し、[[西方浄土]][[往生]]者は[[不退転]]である、②[[兜率天]]での[[寿命]]は四千歳であるのに対し、[[西方浄土]]は[[無量]]である、③[[兜率天]]の水・鳥・樹林は&amp;lt;ruby&amp;gt;雅&amp;lt;rt&amp;gt;みやび&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;な音を出すがそれらは[[快楽]]のものであって[[悟り]]の助けとはならないのに対し、[[西方浄土]]へ[[往生]]した者は[[不退転]]位を得ると共に[[寿命]]は[[阿弥陀仏]]と等しく[[無量]]であり、[[極楽浄土]]の水・鳥・樹林はみな[[説法]]し[[往生人]]を悟らせる、④[[西方浄土]]の音楽は、[[兜率天]]の音楽より勝れている、として[[西方浄土]]の優位性を示している。また、[[十方浄土]]と[[西方浄土]]については、①[[十方]]の[[浄土]]を願うことは対象が広く心が蒙昧としてしまうのに対し、[[西方浄土]]を願うことは対象が限定されるので心を専らにすることができる、②[[十方]]の[[浄土]]は[[往生]]しがたいのに対し、[[西方浄土]]は[[往生]]しやすい、としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[法然]]は[[十方浄土]][[往生]]や[[兜率往生]]と[[西方浄土]][[往生]]について、[[末法]]に着目しながら論じている。『[[選択集]]』六では、[[末法]]時においては[[十方浄土]][[往生]]の諸経が先に滅するのに対し、[[西方浄土]][[往生]]の教えを説く『[[無量寿経]]』のみ留まることをもって、[[十方]]の[[浄土]]は[[機縁]]浅薄にして[[西方浄土]]は[[機縁]]深厚であるとし、[[末法]]時においては兜率[[上生]]の諸経は先に滅するのに対し、[[西方浄土]]への[[往生]]を説く『[[無量寿経]]』のみ留まることをもって、兜率は近いが縁が浅く、[[極楽]]は遠いが縁が深いと説示している。また『[[要義問答]]』には、「問う、[[十方]]に[[浄土]]多し、いずれをか&amp;lt;ruby&amp;gt;欣&amp;lt;rt&amp;gt;ねが&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いそうろうべき。兜率の[[往生]]を願う人も多くそうろう。いかが思い定めそうろうべき。答う、天台大師ののたまわく〈諸教に&amp;lt;ruby&amp;gt;讃&amp;lt;rt&amp;gt;ほ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;むるところ多く[[弥陀]]にあり。故に[[西方]]を以て一準とす〉と。また顕密の教法の中に専ら[[極楽]]を勧むる事&amp;lt;ruby&amp;gt;称計&amp;lt;rt&amp;gt;しょうげ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すべからず。[[恵心]]の『[[往生要集]]』に[[十方]]に対して[[西方]]を勧め、兜率に対して多くの勝劣を立て、難易相違の証拠どもを引けり。尋ね御覧ぜさせたまえ。[[極楽]]この土に縁深し。[[弥陀]]は[[有縁]]の教主なり。宿因の故、[[本願]]の故、ただ[[西方]]を欣わせたまうべきとぞ覚えそうろう」（聖典四・三七九～八〇／昭法全六一六）とあり、[[十方浄土]]および兜率と比較して[[極楽浄土]]・[[阿弥陀仏]]は宿因と[[本願]]がある故に[[極楽]][[往生]]を願うべきであると説示している。いずれにしても、[[十方浄土]]への[[往生]]は経説にあるものの、実際には広く[[信仰]]されたわけではなく、[[兜率往生]]は[[唯識]]思想が[[弥勒]]から始まるという伝承から[[唯識]]関係の[[祖師]]によって[[願生]]されたが、現在まで広く[[信仰]]が残っているのは[[極楽]][[往生]]のみである。&lt;br /&gt;
==［[[往生]]の定義］==&lt;br /&gt;
[[法然]]は『[[往生要集釈]]』において「[[往生]]とは、此を捨てて彼に往き[[蓮華]]に[[化生]]するなり。[[草庵]]に眼を&amp;lt;ruby&amp;gt;瞑&amp;lt;rt&amp;gt;ひさ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ぐ間、[[蓮台]]に跏を結ぶの時なり。即ち[[聖衆]]の後に従い、[[菩薩]]衆の中にありて、[[一念]]の頃に[[西方]][[極楽]][[世界]]に往き生ずる。故に[[往生]]と言うなり」（昭法全一七）と述べている。[[聖光]]は『&amp;lt;ruby&amp;gt;[[西宗要]]&amp;lt;rt&amp;gt;せいじゅうよう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;』において「[[往生]]とは、[[捨此往彼]]なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0173 浄全一〇・一七三上]）といい、[[良忠]]は『[[往生要集義記]]』一において「[[往生]]とは此を捨て&amp;lt;ruby&amp;gt;彼&amp;lt;rt&amp;gt;かしこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に往きて池[[蓮華]]の中に生ず」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J15_0158 浄全一五・一五八下]）としている。[[聖冏]]は、『[[釈浄土二蔵義]]』一一において「往とは[[捨此往彼]]、生とは[[蓮華化生]]なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0127 浄全一二・一二七下]）としている。このように[[浄土宗]]では、「[[捨此往彼]]　[[蓮華化生]]」をもって[[往生]]としている。&lt;br /&gt;
==［[[往生]]の語義概念について］==&lt;br /&gt;
[[曇鸞]]は『[[往生論註]]』下において、生に対する[[執着]]を捨て、[[往生]]とは[[無生の生]]であると知って[[往生]]する[[無生而生往生]]（[[上品]]の者）と、願[[往生]]を[[執着]]として否定せず、[[法性]][[無生]]の理を知らずとも[[名号]]を称え[[往生]]すれば[[自然]]に[[無生]]を体得する[[見生無生往生]]（[[下品]]の者）を説いている。[[道綽]]は『[[安楽集]]』第一大門において[[極楽浄土]]の[[三界]]の摂と不摂について「[[浄土]]は勝妙にして、体、[[世間]]を出でたり。この[[三界]]は、すなわちこれ[[生死]][[凡夫]]の闇宅なり。…この故に[[浄土]]は[[三界]]の摂にあらず」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0679 浄全一・六七九下]）と述べ[[三界]]不摂を明らかにし、第七大門においては[[浄土]]が[[有相]]であることについて「故にこれ相を取るといえども、まさに執縛とすべきにあらず。またかの[[浄土]]にいう所の相とは、すなわちこれ無漏の相、[[実相]]の相なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0703 浄全一・七〇三下]）と述べている。これらは[[浄土]][[往生]]が[[三界]]を超過し無漏の境界に入るものであり、正しく[[生死]][[解脱]]であることを明らかにするものである。[[善導]]は『[[観経疏]]』において、[[世親]]の『[[往生論]]』を引用して勝過[[三界]]を明らかにし、[[極楽浄土]]については「皆これ[[弥陀]]浄国の無漏真実の勝相なり」（聖典二・一六四／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0002 浄全二・二下]）、「[[西方]]は寂静[[無為]]の楽なり。&amp;lt;ruby&amp;gt;畢竟逍遥&amp;lt;rt&amp;gt;ひっきょうしょうよう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;として有無を離れたり」（聖典二・二四八／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0038 浄全二・三八上]）と述べ、『[[法事讃]]』においては「[[涅槃]]城に入らしむ」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0002 浄全四・二上]）、「[[極楽浄土]]は[[無為涅槃界]]なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0021 浄全四・二一上]）と述べている。これらは、[[有相]]である[[極楽浄土]]への[[往生]]が無漏真実・[[無為涅槃界]]の境界に入ることを示すものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[法然]]は『[[無量寿経釈]]』において「[[往生]][[浄土]]の法門は、いまだ[[煩悩]]の迷を断ぜずといえども、[[弥陀]]の[[願力]]によりて[[極楽]]に生ずる者は、永く[[三界]]を離れて、[[六道]][[生死]]を&amp;lt;ruby&amp;gt;出&amp;lt;rt&amp;gt;い&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ず。故に知りぬ。[[往生]][[浄土]]の法門は、これいまだ惑を断ぜず[[三界]]を出過するの法なり」（昭法全六八）と述べ、[[煩悩]]の迷いを断つことができない[[凡夫]]であっても、[[阿弥陀仏]]の[[本願力]]によって[[浄土]][[往生]]した者は、[[三界]]を離れ[[六道]][[輪廻]]から[[解脱]]することを明らかにし、[[往生]][[浄土]]の法門が惑を断ぜずに[[三界]]を出過する法であるとしている。また『[[要義問答]]』において「[[往生浄土門]]というはまず[[浄土]]へ生まれて彼にて悟をも開き、仏にも成らんと思うなり」（聖典四・三七八～九／昭法全六一五）と説いているように、[[法然]]は[[浄土]]に生まれることを[[往生]]とし、[[往生]][[浄土]]の後に[[悟り]]を目指すことを明らかにしている。すなわち『[[逆修説法]]』&amp;lt;ruby&amp;gt;二七&amp;lt;rt&amp;gt;にしち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;日において「いま[[浄土宗]]の[[菩提心]]とは、まず[[浄土]]に[[往生]]して、一切[[衆生]]を度し、一切の[[煩悩]]を断じ、一切の法門を[[悟り]]、無上[[菩提]]を証せんと欲するの心なり」（昭法全二四〇）と説かれるように、[[往生]]の後に[[菩提心]]を起こして[[悟り]]を目指すのであるから、[[浄土宗]]では[[往生]]と[[成仏]]を同義には捉えない。さらに『[[選択集]]』三において「[[乃至]][[一念]][[至心]]に[[回向]]して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち[[往生]]を得て[[不退転]]に住すと云えるこれなり」（聖典三・一二一／昭法全三二一）と説かれるように、[[浄土]][[往生]]は[[不退転]]位に入ることである。なお、[[往生]]の[[業成]]就については「[[往生]]の[[業成]]就は、臨終平生に渡るべし。[[本願]]の文&amp;lt;ruby&amp;gt;簡別&amp;lt;rt&amp;gt;けんべつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;せざる故なり」（聖典六・二八一／昭法全四九四）と述べ、[[業事成弁]]は臨終平生にわたるとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[聖冏]]は『[[釈浄土二蔵義]]』一一の中で[[往生]]について「見生の当体を改めざるの[[凡夫]]、覚らずして[[無生]]の本際に転入す」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0126 浄全一二・一二六上]）と述べ、[[執着]]のある[[凡夫]]であっても悟らずに[[無生]]の境界に入ることを明らかにしている。これは[[阿弥陀仏]]の[[救済]]が、[[執着]]を断ぜずとも[[執着]]を超えさせることを示したものである。また「もし実義に約せば[[往生]]と言うはこれすなわち[[無生]]なり、見生の当体すなわちこれ[[無生]]なり、[[無生]]にしてしかも生なればすなわちこれ[[往生]]なり、[[往生]][[無生]]はすなわちこれ[[無生]]なり、理事縦横即相不退なり。ただ我が[[真宗]]のみ[[事理]]ともに頓なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0127 浄全一二・一二七下]）と述べ、[[浄土宗]]の優位性を示している。さらに『[[法事讃]]』上の「[[浄土]]の[[無生]]また別なし、究竟の[[解脱]][[金剛]]身なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0009 浄全四・九下]）の一文について、「もしこの意を解せば、あるいは[[現世]]に[[無生]]を証し、あるいは即身に[[往生]]を得ん、いかに況んや順次の得脱をや」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0348 浄全一二・三四八上]）と解し、[[現世]]証得としている。&lt;br /&gt;
==［西山派の説く[[往生]]］==&lt;br /&gt;
[[証空]]は、即便[[往生]]と[[当得往生]]の二つを立てている。『[[観経]][[定善]]義[[他筆抄]]』上において「此世とは即便[[往生]]を云い、[[後世]]とは[[当得往生]]を云う。証得[[往生]]を即便と云い、当得は[[来迎]]なり」（西叢六・九上）と述べているように、即便[[往生]]とは平生において領解の[[三心]]をもって[[念仏]]を称えれば、仏の[[来迎]]を得て[[往生]]を証得する現益のことをいい、[[当得往生]]とは臨終に[[聖衆]]の[[来迎]]を受け[[穢土]]より[[浄土]]に[[往生]]する当益のことをいう。&lt;br /&gt;
==［[[真宗]]で説く[[往生]]］==&lt;br /&gt;
[[親鸞]]は『[[一念多念文意]]』において「〈[[即得往生]]〉というは、〈即〉は、すなわちという、ときをへず日をもへだてぬなり。また、〈即〉はつくという、その位に定まりつくということばなり。〈得〉は、うべきことをえたりという。真実[[信心]]をうれば、すなわち[[無礙光]]仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。摂はおさめたまう、取はむかえとると申すなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日もへだてず、[[正定聚]]の位につき定まるを、〈[[往生]]を得〉とはのたまえるなり」（[[真宗]]聖典六七八）と述べ、[[現世]]において[[信心]]が定まった時に[[往生]]も定まるとし、それを&amp;lt;ruby&amp;gt;現生[[正定聚]]&amp;lt;rt&amp;gt;げんしょうしょうじょうじゅ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;としている。また、『[[浄土]]三経[[往生]]文類』においては「[[大経]][[往生]]・[[観経]][[往生]]・[[小経]][[往生]]」について説明し、それぞれ第十八願による[[往生]]を[[他力]]の[[念仏]]による難思議[[往生]]、第十九願による[[諸行往生]]を双樹林下[[往生]]、第二十願による[[往生]]を[[自力]]の[[念仏]]による難思[[往生]]としている。また[[大経]][[往生]]の説明の中に「現生に[[正定聚]]の位に住して、かならず真[[実報土]]にいたる。これは[[阿弥陀如来]]の往相[[回向]]の真因なるがゆえに、無上[[涅槃]]のさとりをひらく」（[[真宗]]聖典六二五）とあるように、[[往生]]即[[成仏]]を説いている。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【資料】『楽邦文類』四、『諸家念仏集』四、『念仏得失義』&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参考】望月信亨『略述浄土教理史』（浄土教報社、一九二一）、岸覚勇『浄土宗義の研究』（記主禅師讃仰会、一九六四）、坪井俊映『浄土教汎論』（隆文館、一九八〇）、藤田宏達『原始浄土思想の研究』（岩波書店、一九七〇）、石田瑞麿『往生の思想』（平楽寺書店、一九六八）、香川孝雄『浄土教の成立史的研究』（山喜房仏書林、一九九三）&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参照項目】➡[[兜率天]]、[[兜率西方勝劣]]、[[十方往生]]、[[十方浄土]]、[[十方浄土極楽浄土の勝劣]]、[[西方浄土]]、[[極楽]]&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：曽根宣雄】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==［[[往生]]の機］==&lt;br /&gt;
[[極楽浄土]]に[[往生]]する人の[[機根]]（素質・能力）をいう。[[法然]]撰とされる『[[往生記]]』では、&amp;lt;ruby&amp;gt;[[難遂往生機]]&amp;lt;rt&amp;gt;なんすいおうじょうき&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（[[往生]]を遂げることが難しい[[機根]]）として一三種をあげ、後に[[種種念仏往生の機]]として五種の[[往生]]の機についてあげている。すなわち①[[智行兼備念仏]][[往生]]の機②義解[[念仏往生]]の機③[[持戒]][[念仏往生]]の機④[[破戒念仏]][[往生]]の機⑤愚鈍[[念仏往生]]の機であり、さらにこれらを二六種に細別している。このうち、[[聖冏]]が『[[往生記投機抄]]』において「第五の愚鈍[[念仏往生]]の人は、正しくこれ宗の本意なり。またこれ[[発迹入源門]]の[[単信の大信]]なり」（聖典五・二六六／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J09_0851 浄全九・八五一上]）と述べるように、[[浄土宗]]の[[正機]]は、愚鈍[[念仏往生]]の機とされる。また『[[無量寿経]]』では、[[往生]]を願うものの[[機根]]に合わせて実践すべき行を説いた[[三輩]]が説かれ、『[[観経]]』では、[[往生]]を願う[[凡夫]]の[[機根]]により分科された階位である[[九品]]が説かれている。これらも[[往生]]の機と考えられる。&lt;br /&gt;
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【参考】柴田哲彦「往生記の総合的研究」（『仏教文化研究』一八、一九七二）&lt;br /&gt;
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【参照項目】➡[[機]]、[[難遂往生機]]、[[往生記]]&lt;br /&gt;
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【執筆者：鷹觜観道】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==［[[往生]]の素懐］==&lt;br /&gt;
[[現世]]を去り[[極楽浄土]]に生まれ変わりたいという平素からの願いをいう。「素懐」とは平素からの願い・想い。また特に、[[出家]]・[[極楽]][[往生]]の願い。[[浄土]][[願生]]者の死を「[[往生]]の素懐を遂げる」と表す。[[法然]]の「生けらば[[念仏]]の功積もり、死なば[[浄土]]に参りなん。とてもかくても、この身には思い煩うことぞ無きと思いぬれば、死生ともに煩い無し」（『[[四十八巻伝]]』聖典六・二八三）とある教えを表現した言葉。&lt;br /&gt;
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【参照項目】➡[[機根]]&lt;br /&gt;
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【執筆者：服部祐淳】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==［[[往生]]の障］==&lt;br /&gt;
上根の者と異なり、中下根の者は臨終まで[[悪趣]]での業因を牽引し、[[弥陀]]の&amp;lt;ruby&amp;gt;[[迎接]]&amp;lt;rt&amp;gt;こうしょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を得るまではそれを成弁することができないこと。[[下品]]中[[下生]]の者が[[念仏]]の[[功徳]]により八十億劫の[[生死]]の罪を除いて[[極楽]][[往生]]を全うする際に、除かねばならない微細の罪として「[[見仏の障]]」「[[発心の障]]」と並んで挙げられる[[三重の障]]の一つ。[[良忠]]『[[伝通記]]』において「[[十念]]に即ち滅す」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0432 浄全二・四三二下]）と説かれ、[[聖冏]]『[[浄土述聞口決鈔]]』上（浄全一一）、ならびに[[忍澂]]『[[善導]]大師別伝纂註』上（浄全一六）にも見られる。&lt;br /&gt;
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【参照項目】➡[[見仏の障]]、[[発心の障]]&lt;br /&gt;
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【執筆者：渋谷康悦】&lt;br /&gt;
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==［[[往生]]と[[成仏]]］==&lt;br /&gt;
[[往生]]とは、[[娑婆]][[世界]]で命終を迎えた後、[[極楽浄土]]に往き生まれることをいい、[[成仏]]とは[[菩薩]]が兆載永劫の[[修行]]によって[[悟り]]を得て仏となることをいう。[[善導]]は『[[往生礼讃]]』の[[五念門]]の説明において「また彼の国に到りおわりて、[[六神通]]を得て[[生死]]に回入して[[衆生]]を[[教化]]すること後際を徹窮して、心に厭足なくすなわち[[成仏]]に至るをまた[[回向]]門と名づく」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0355 浄全四・三五五下]）と述べ、[[浄土]]に[[往生]]した後に[[利他]]行を成就して[[成仏]]するとしている。さらに「前念に命終して、後念に即ちかの国に生ず。長時永劫常に[[無為]]の[[法楽]]を受く、すなわち[[成仏]]に至るまで[[生死]]を経ず」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0357 浄全四・三五七上]）と述べており、[[往生]]と[[成仏]]を即時とはしていない。また、『[[観経疏]]』玄義分の[[別時意]]の[[会通]]において「仏果を求めんが為にするは、すなわちこれ[[正報]]なり。下にただ[[発願]]して[[浄土]]に生ぜんと求むるは、すなわちこれ依報なり。…然るに[[正報]]は期し難し、一行精なりといえどもいまだ剋せず。依報は求め易けれども、一願の心を以て、いまだ入らざる所なり」（聖典二・一八二／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0021 浄全二・二一下]）といい、仏果とは[[正報]]を求めることであり難しいが、[[往生]]とは依報を求めることでありたやすいことであることを明かしている。つまり、[[善導]]は、[[念仏]]は[[成仏]]（[[正報]]）においては[[別時意]]であるが、[[往生]]（依報）においては[[別時意]]ではなく[[願行具足]]しているとし、[[成仏]]と[[往生]]を別義としている。[[法然]]は『[[念仏大意]]』において「末代の[[衆生]]、その行成就し難きによりて、まず[[弥陀]]の[[願力]]に乗りて[[念仏往生]]を遂げて後、[[浄土]]にて[[阿弥陀如来]]観音勢至に値いたてまつりて、諸の[[聖教]]をも学し悟をも開くべきなり」（聖典四・三四三／昭法全四〇七）と説き、末代の[[凡夫]]は[[娑婆]]において[[悟り]]を得ることが困難であるので、[[阿弥陀仏]]の[[本願力]]によって[[念仏往生]]を遂げた後に、[[浄土]]の[[阿弥陀仏]]観音勢至のもとで[[修行]]し[[悟り]]を開くのだとしている。また『[[逆修説法]]』二七日の[[菩提心]]の説明において「今[[浄土宗]]の[[菩提心]]とは、先ず[[浄土]]に[[往生]]して、一切[[衆生]]を度し、一切の[[煩悩]]を断じ、一切の法門を[[悟り]]、無上[[菩提]]を証せんと欲する心なり」（昭法全二四〇）と述べ、[[浄土]]に[[往生]]した後に[[衆生]]を[[済度]]し[[煩悩]]を断じ法門を悟って無上なる[[悟り]]を得るとしている。また[[聖冏]]は『&amp;lt;ruby&amp;gt;[[糅鈔]]&amp;lt;rt&amp;gt;にゅうしょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;』三において「凡そ[[浄土門]]に遠近の両果あり。[[往生]]は近果、[[成仏]]は遠果なり。上根は[[成仏]]を期して[[往生]]を&amp;lt;ruby&amp;gt;欣&amp;lt;rt&amp;gt;ねが&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;う、故にこの人を化すには[[菩提心]]を勧む、これ教の本意なり。下根は[[浄土]]を期して[[往生]]を欣う、故にこの人を化するには[[三心]]を勧む、これ教の本意なり。また浄教の意は仏果を成せんがために[[往生]]を勧むるが故に、第十八の願には未[[発心]]に約して[[生因]]を誓いて、すなわち[[成仏]]の果となす。故に三経ならびに[[念仏]]の人に対して[[成仏]]の益を説く」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J03_0106 浄全三・一〇六上]）と述べ、[[浄土門]]では[[往生]]を近果、[[成仏]]を遠果とし、仏果を成ずるために先ず[[往生]]を勧めるとしている。[[良栄]][[理本]]の『[[東宗要]][[見聞]]』第二[[見聞]]第二では「[[有相]]の[[念仏]]をもって[[浄土]]に[[往生]]し、得生已後[[無相]]の智を起して、[[煩悩]]所知の二障を断じ終に[[成仏]]す。しかれば[[成仏]]の遠果に望て、今の[[有相]]の[[念仏]]を今植彼因と云う。しかれば彼というは、欲断二障の仏果を指す。[[往生]]の近果を彼と云うにはあらず」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0393 浄全一一・三九三下]）といい、[[有相]]の[[念仏]]によって[[往生]]した後に[[無相]]の智を起こして二障を断じて[[成仏]]するとしている。このように[[浄土宗]]においては、[[往生]]と[[成仏]]は別義であり、[[往生]]の後に[[浄土]]で[[修行]]し[[成仏]]を得ると[[解釈]]する。[[真宗]]では、[[親鸞]]が『[[教行信証]]』三において「大願[[清浄]]の[[報土]]には品位階次を云わず、[[一念]][[須臾]]の頃に速疾に無上正真道を超証す」（真聖全二・九五）と説いていることに基づき、[[往生]]即[[成仏]]と[[解釈]]し[[往生]]と[[成仏]]を区別しない。&lt;br /&gt;
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【参照項目】➡[[別時意]]、[[成仏]]、[[別時意会通]]&lt;br /&gt;
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【執筆者：曽根宣雄】&lt;/div&gt;</summary>
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