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		<title>専修・雑修 - 版の履歴</title>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:28時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

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		<title>2018年3月30日 (金) 06:28に192.168.11.48による</title>
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				<updated>2018-03-30T06:28:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=せんじゅ・ざっしゅ／専修・雑修=&lt;br /&gt;
[[極楽浄土]]に[[往生]]するための行として、専ら一行を修める[[専修]]と、多種の行法（[[諸行]]）を修める[[雑修]]とがあり、[[善導]]『[[往生礼讃]]』の前序に「もし専を捨てて[[雑業]]を修せんと欲する者は、百の時まれに一二を得、千の時まれに三五を得る」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0356 浄全四・三五六下]／[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0439b.html 正蔵四七・四三九中]）や「余、このごろ自ら諸方の道俗を[[見聞]]するに、[[解行]]同じからず専雑異りあり。もし&amp;lt;ruby&amp;gt;意&amp;lt;rt&amp;gt;こころ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を専らにして&amp;lt;ruby&amp;gt;作&amp;lt;rt&amp;gt;な&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;す者は、十は即ち十生じ、雑を修めて[[至心]]ならざる者は、千が中に一もなし。この[[二行の得失]]は前にすでに弁ずるがごとし」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0357 浄全四・三五七上]／[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0439b.html 正蔵四七・四三九中]～下）と説かれている。すなわち、[[念仏]]の一行を専ら修める者は十人は十人ながら[[往生]]できるが、[[諸行]]をまじえて行ずる者は千人に一人として[[往生]]し得ないという。それは[[専修]]に四得があり、[[雑修]]に十三失があるからである。[[専修]]の四得とは「外の[[雑縁]]なく[[正念]]を得るが故に。仏の[[本願]]と相応することを得るが故に。教えに違せざるが故に。[[仏語]]に随順するが故に」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0356 浄全四・三五六下]／[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0439b.html 正蔵四七・四三九中]）として示され、[[雑修]]の十三失とは「[[雑縁]]乱動し[[正念]]を失するに由るが故に。仏の[[本願]]と相応せざるが故に。教えと相違するが故に。[[仏語]]に順ぜざるが故に。係念相続せざるが故に。[[憶想間断]]するが故に。[[回願]]慇重真実ならざるが故に。貪・瞋・諸見の[[煩悩]]来たりて間断するが故に。[[慚愧]]・[[懺悔]]の心有ること無きが故なり。…また相続してかの仏の恩を念報せざるが故に。心に軽慢を生じて業行をなすといえども常に名利と相応するが故に。人我みずから覆いて[[同行]]の[[善知識]]に親近せざるが故に。ねがいて[[雑縁]]に近づきて[[往生]]の[[正行]]を自障し障他するが故なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0357 浄全四・三五七上]／[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0439b.html 正蔵四七・四三九中]）と述べられている。この[[善導]]の[[解釈]]をうけた[[懐感]]は『[[群疑論]]』四において、「みな懈慢にして執心牢固ならざるによる。是に知りぬ。[[雑修]]の者は執心不牢の人なるが故に懈慢国に生まる。正しく処胎経の文と相い当たれり。もし[[雑修]]せずして専ら此の業を行ずれば、即ち執心牢固にして定んで[[極楽]]国に生まる」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J06_0049 浄全六・四九下]／[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0050c.html 正蔵四七・五〇下]）と述べているように、[[専修]]とは執心牢固に[[念仏]]一行を専らにして[[極楽]]に[[往生]]することであり、[[雑修]]とは執心不牢固のままに[[諸行]]をまじえて修めることで懈慢国に[[往生]]する行法とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[法然]]は『[[選択集]]』二において[[善導]]の『[[往生礼讃]]』の文を引用した上で「私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに[[百即百生]]の[[専修]][[正行]]を捨てて、堅く[[千中無一]]の[[雑修雑行]]を執せんや。[[行者]]能くこれを思量せよ」（聖典三・一一三／昭法全三一七）と述べ、また『[[浄土宗略抄]]』でも「[[正行]]を行ずる者をば[[専修]]の[[行者]]といい、[[雑行]]を行ずるをば[[雑修]]の[[行者]]と申すなり」（聖典四・三六四／昭法全六〇一～二）と述べて、[[専修]]を[[正行]]（正助二行）とみなしているが、『[[大胡の太郎実秀が妻室のもとへつかわす御返事]]』に「[[往生]]の行多しといえども大きに分かちて二つとしたまえり。一つには[[専修]]、いわゆる[[念仏]]なり。二つには[[雑修]]、いわゆる一切の諸の行なり」（聖典四・四一三／昭法全五一二）、『[[念仏大意]]』では「しかればかえすがえすも[[一向専修]]の[[念仏]]に信を致して他の心なく、日夜朝暮[[行住坐臥]]に怠る事なく[[称念]]すべきなり。[[専修念仏]]を致す輩当世にも[[往生]]を遂ぐる聞こえその数多し。[[雑修]]の人においてはその聞こえ極めて有り難し」（聖典四・三五〇～一／昭法全四一四）、さらに『[[津戸の三郎へつかわす御返事]]』にも「唐の世に[[善導]][[和尚]]と申しそうらいし人、[[往生]]の[[行業]]において[[専修]][[雑修]]と申す二つの行を分かちて勧めたまえる事なり。[[専修]]というは[[念仏]]なり。[[雑修]]というは[[念仏]]の外の行なり」（聖典四・五一五／昭法全五六八）として、[[称名念仏]]のみを[[専修]]とする理解も同時に示している。これをうけて三祖[[良忠]]は『[[東宗要]]』五において、「第十八、問う専雑二修と正雑二行とは同とやせん、異とやせん」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0098 浄全一一・九八下]）と問い、[[専修]]は[[正行]]、[[雑修]]は[[雑行]]であるとしている。また『[[決疑鈔]]』二でも「正雑二行はすなわち専雑二修なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J07_0214 浄全七・二一四下]）と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[証空]]は『[[観経疏他筆抄]]』[[散善]]義上に「正雑二行は行体に名づけ、専雑二修は心相に名づけたり。すなわち[[起行]]と[[作業]]の差別なり。また二修とは[[二行の得失]]なり。いまの釈に、前の正助二業を修すれば心常に親近して[[憶念]]断ぜざれば名づけて無間とす。無間とは[[正行]]の得なり。また後の[[雑行]]を行ずれば心常に間断すと云うは[[雑修]]の失なり」（西全五・三一六上）と述べ、さらに「[[正行]]を修すれば[[憶念]]不断にして[[無間修]]を成ず。[[雑行]]を修すれば心常に間断して[[専修]]を成ぜずと見えたり。しかるに文の首尾を明らむるに、正雑二行は二修によりてその名を立て、専雑二修は[[二行の得失]]なり」（西全五・三二三上）とあるように、正雑二行とは[[往生行]]（[[起行]]）そのものであり、専雑二修とはその二行によってもたらされる心相としての得失であるという。具体的には、[[専修]]とは[[正行]]を修めることによって得られる[[四修]]（[[作業]]）の中の[[無間修]]であり、[[雑修]]とは[[雑行]]によって心が[[阿弥陀仏]]と間断する失とする。また『[[往生礼讃]]自筆御鈔』に「難[[行道]]の心を指して[[雑修]]と名付け、[[易行道]]を指して[[専修]]と云うなり…[[専修]]は直ちに身口に[[弥陀]]の一行を修するのみを指さず、心を専らにするなりと云うなり」（西叢三・三七上）とも述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[親鸞]]は『[[教行信証]]』六化[[身土]]巻に「また[[雑行]]につきて専行あり専心あり、また[[雑行]]あり雑心あり。専行とは専ら一善を修すが故に専行という。専心とは[[回向]]を専らにするが故に専心という。[[雑行]]・雑心とは、諸善兼行するが故に[[雑行]]といい、定散の心雑わるが故に雑心というなり。また正・助につきて[[専修]]あり[[雑修]]あり。この[[雑修]]につきて専心あり雑心あり。[[専修]]につきて二種あり。一には唯だ[[仏名]]を称し、二には五専あり。此の[[行業]]につきて専心あり雑心あり。五専とは、一に専礼、二に専読、三に専観、四に専称、五に専讃嘆、これを五[[専修]]と名づく。[[専修]]、その言は一にしてその意はこれ異なり。即ちこれ定[[専修]]、また散[[専修]]なり。専心とは五[[正行]]を専らにして二心なきが故に専心という。即ちこれ定専心、またこれ散専心なり。[[雑修]]とは[[助正]]兼行するが故に[[雑修]]という。雑心とは定散の心雑なるが故に雑心というなり。知るべし」（[[真宗]]聖典四九八～九／真聖全二・一五五～六）と述べている。これによると、[[専修]]と[[雑修]]は、正助二行（[[五種正行]]）について分類したものであり、[[専修]]とは[[他力]][[念仏]]の「唯称[[仏名]]」と[[要門]]の「五専」（[[五種正行]]の一々を専らに修めること）であり、前者を定[[専修]]といい、後者を散[[専修]]であるとする。また[[雑修]]とは[[助正]]兼行することであり、これらを専ら[[回向]]する専心と、定散の心がまじわる雑心にわけて[[解釈]]している。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参考】坪井俊映「法然浄土教における一向専修の形成について—往生要集釈と無量寿経釈を中心として」（『東洋文化論集』、一九六九）、廣川堯敏「法然門下における専修念仏義の展開」（『浄土教文化論』山喜房仏書林、一九九一）、那須一雄「法然とその門下における〈専修・雑修〉理解—特に隆寛・証空・静遍について」（『真宗研究』五二、二〇〇八）&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参照項目】➡[[正行・雑行]]&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：齊藤隆信】&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.168.11.48</name></author>	</entry>

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