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		<title>人間観 - 版の履歴</title>
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		<updated>2026-05-07T04:01:21Z</updated>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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				<updated>2018-03-30T06:31:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:31時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

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		<title>2018年3月30日 (金) 06:31に192.168.11.48による</title>
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				<updated>2018-03-30T06:31:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=にんげんかん／人間観=&lt;br /&gt;
人間についての問いから生じる人間の見方。人間の本性とは何か、人間の特色とは何か、など人間の根本問題を捉え、人間の真実のあり方を明らかにしていく観点から人間を把握することで、その見方・観点には様々な立場がある。西洋の哲学では、人間に固有な性質や機能への着目からhomo sapiens（理性的人間）、homo faber（工作的人間）等といった捉え方がなされ、また個的で具体的存在であることを強調する[[実存]]的人間や、[[知覚]]の束とする現象的人間などといった理解が見られるが、概して客観的・類別的に捉える傾向が指摘される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[仏教]]では、「さとり」を目的とする実践[[修行]]の当体としての人間という関心から大別して、本質的なあり方を見る観点と人間の現実のあり方を見る観点の二つの立場を指摘することができる。本質的なあり方を見る観点とは、「覚りを開く性能としての[[仏性]]」を人間の本質的あり方とする立場であり、初期[[仏教]]から[[大乗仏教]]を通して多く見られる。こうした中で、[[浄土教]]は特徴的に、人間の現実のあり方、すなわち、人間は[[仏性]]を持っていても[[仏性]]が隠蔽された現[[実存]]在（[[実存]]）として、[[凡夫]]であると見なす傾向が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初期[[仏教]]では、インド文献一般とともに人間に対してマヌシャ（ⓈmanuṣyaⓅmanussa）の語が用いられた。これは、「考えるもの」という意味であり、西洋哲学のhomo sapiensに相当する。ただし『[[俱舎論]]』では、この語が[[輪廻]]する[[世界]]の一つとして用いられるように、特に[[仏教]]的意味を帯びたものではなく、古代インドで使用された語を経論が用いたに過ぎない。インド後期の[[仏教]]では、サットバ（ⓈsattvaⓅsatta）が用いられるようになる。これは、現存者・生存者の意を持つ語であり、また[[執着]]するものとも解され、中国では[[衆生]]（旧訳）・[[有情]]（[[新訳]]）と訳される。『相応部経典』に「[[有情]]、[[有情]]と言われるのは、何故、[[有情]]と言われるのか。色（受・想・行・識）において、欲あり、貪あり、喜あり、[[渇愛]]あり、執著し、染着せるが故に[[有情]]と言われる」（南伝相応部二三・二、南伝一四・二九九～三〇〇）とあり、また基の『[[成唯識論]]述記』一（[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V43.0233c.html 正蔵四三・二三三下]～四上）には、[[有情]]とは[[煩悩]]を持って[[執着]]するものであるとする説明が見られる。こうした理解は、単に「考えるもの」や「生存者」とする人間理解に対して、[[執着]]を離れた存在である[[仏陀]]を前提とし、それを志向するという意味においてより[[仏教]]的な人間把握であるといえる。すなわち、人間を「[[煩悩]]を持ち、[[執着]]するもの」として自覚的に捉えることを始点としつつ、[[修行]]実践を通して[[有情]]（sattva）から覚める（bodhi）、&amp;lt;ruby&amp;gt;[[菩提]]薩埵&amp;lt;rt&amp;gt;ぼだいさった&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（bodhisattva）というあり方が想起されるのである。この[[菩提]]薩埵の覚りは[[智慧]]と[[慈悲]]をともない、必然的に他者の覚りへと展開する。これが[[大乗仏教]]の[[菩薩]]思想における[[自覚覚他]]の理念である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらマヌシャやサットバにならび、[[仏教]]において注目されるべき人間の捉え方にⓈpṛthag-janaⓅputhujjanaがある。これはもともと、「独りひとり別々に生まれたもの」といった単数を意味する用語であるが、転化して、聖者とは反対の意味を持つ「下層階級の人・一般庶民」そして「愚かな人」といった意味に解されるようになった。このような、人間一般を指す語で人間の[[煩悩]]的存在が表現されるようになったのは、後代の[[仏教]]思想においてであり、インドから中国にいたるまでは第三者からの呼称として用いられていたようである。中国から日本にいたる[[大乗仏教]]、特に[[浄土教]]では、人間が[[煩悩]]的存在であるという点を凝視して、「無智者」や「[[愚痴]][[凡夫]]」という表現をとり、自己の[[宗教]]的自覚をともなう主体的な内容を持つようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中国浄土教]]に多大な影響を与えた[[曇鸞]]が、「われすでに[[凡夫]]にして[[智慧]]浅短なり」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0695 浄全一・六九五上]／[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0014b.html 正蔵四七・一四中]）と告白していることが、[[道綽]]の『[[安楽集]]』によって伝えられる。[[道綽]]自身も、北周の廃仏という過酷な経験とそれにともなう[[末法]][[意識]]の高まりによって時代への危機感を「当今は[[末法]]、現にこれ[[五濁]]悪世」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0693 浄全一・六九三上]／[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0013c.html 正蔵四七・一三下]）と断言し、また人間においては「起悪造罪を論ぜば、何ぞ暴風&amp;lt;ruby&amp;gt;駛雨&amp;lt;rt&amp;gt;しう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に異ならん」（同）と、その止みがたい[[凡夫]]性を表現している。ここには、かつて『[[涅槃経]]』を講じ「[[一切衆生悉有仏性]]」を信じていたであろう[[道綽]]の切実な内省に導かれた[[人間観]]が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[善導]]は、師である[[道綽]]の[[人間観]]を継承・展開し、その[[浄土教]]の基盤とした。[[善導]]の『[[観経疏]]』玄義分は「&amp;lt;ruby&amp;gt;垢障&amp;lt;rt&amp;gt;くしょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;覆うこと深ければ、浄体[[顕照]]するに由し無し」（聖典二・一六一／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0001 浄全二・一下]）として、浄体、すなわち覚りを開く性能としての[[仏性]]を認めながらも、それが[[煩悩]]に深く覆われて現実化し得ないことを内省している。これが単に[[善導]]自身の問題ではなく、自身を含めたすべての人間に当てはまる洞察であることは、同じく玄義分で「我等[[愚痴]]の身」（聖典二・一六〇／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0001 浄全二・一上]）と表現し、『[[観経]]』に説かれる[[九品]]をすべて[[凡夫]]である（[[九品皆凡]]）と[[解釈]]しているところに認めることができる（聖典二・一七六～七／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0008 浄全二・八上]）。さらに[[散善]]義では、[[浄土教]][[信仰]]者の心がまえである[[三心]]のうちの[[深心]]（深信）において「自身は現にこれ[[罪悪生死の凡夫]]、&amp;lt;ruby&amp;gt;曠劫&amp;lt;rt&amp;gt;こうごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;より&amp;lt;ruby&amp;gt;已来&amp;lt;rt&amp;gt;このかた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、常に没し常に[[流転]]して、[[出離]]の縁有ること無し」（聖典二・二八九／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0056 浄全二・五六上]）と、自己の[[凡夫]]性を[[信仰]]の内容として規定する点に、[[善導]]の[[浄土教]]がその[[人間観]]の上に構築されていることが読みとれる。実際に[[善導]]の[[浄土教]]思想の一つの特徴でもある[[指方立相]]についても、[[定善]]義に「末代罪濁の[[凡夫]]の、相を立てて心を住するすら、なお、得ること能わじ。何にいわんや、相を離れて事を求めば、術通無き人の空に居して、舎を立てんがごとし」（聖典二・二六九／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0047 浄全二・四七下]）と[[凡夫]]ということから論を展開するが、これはその証左といえるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本で[[浄土教]]を確立し、[[浄土宗]]を開いた[[法然]]は、主著『[[選択集]]』に「&amp;lt;ruby&amp;gt;偏&amp;lt;rt&amp;gt;ひとえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に[[善導]]一師に依るなり」（聖典三・一八五／昭法全三四八）と表明しているように、その[[人間観]]も[[善導]]を継承している。[[法然]]自身の自覚内容としては、『[[諸人伝説の詞]]』に伝えられる「[[十悪]]の[[法然]]房」「[[愚痴]]の[[法然]]房」（聖典四・四八二／昭法全四五八）といった表現を見ることができるが、[[聖光]]の『[[徹選択集]]』は、[[法然]]が[[善導]]の教えに出会う契機として、[[仏道]]実践の[[規範]]である[[戒・定・慧]]の[[三学]]をなし得ない自身（[[三学非器]]）への悲嘆を伝えている（聖典三・二八四～五／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J07_0095 浄全七・九五上]～下）。この悲嘆を契機として、それを解決する教えとして[[善導]]と出会ったということが[[法然]][[浄土教]]の性格を決定づけているといえるだろう。『[[念仏往生要義抄]]』では「口には経を読み身には仏を[[礼拝]]すれども心には思わじ事のみ思われて一時も止まる事なし。…善心は年年に随いて薄くなり、悪心は日日に随いていよいよ増る。されば古人のいえる事あり。〈[[煩悩]]は身に添える影、去らんとすれども去らず。[[菩提]]は水に浮かべる月、取らんとすれども取られず〉と」、と人間の[[煩悩]]的存在を認めつつも、「およそ[[阿弥陀仏]]の[[本願]]と申す事は&amp;lt;ruby&amp;gt;様&amp;lt;rt&amp;gt;よう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もなく、我が心を澄ませとにもあらず、不浄の身を浄めよとにもあらず、ただ&amp;lt;ruby&amp;gt;寐&amp;lt;rt&amp;gt;ね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ても&amp;lt;ruby&amp;gt;寤&amp;lt;rt&amp;gt;さ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;めても一筋に御名を称うる人をば…仏の[[来迎]]に預からん事疑あるべからず」（聖典四・三二五～六／昭法全六八四～五）と、このような[[凡夫]]のためにこそ[[阿弥陀仏]]の[[本願]]が立てられたのであり、[[来迎]]があると述べている。また、[[信仰]]の在り方である[[三心]]についても[[善導]]を受けて、[[深心]]について『[[浄土宗略抄]]』などに「一つには決定して我が身はこれ[[煩悩]]を[[具足]]せる[[罪悪生死の凡夫]]なり、[[善根]]薄少にして、曠劫よりこのかた常に[[三界]]に[[流転]]して[[出離]]の縁なし、と深く信ずべし。…始めに我が身の程を信じて後には仏の誓を信ずるなり。後の[[信心]]のために始めの信をば挙ぐるなり」（聖典四・三五五～六／昭法全五九四）と、[[凡夫]]としての[[人間観]]をその[[信仰]]内容として積極的に位置づけている。これは、『[[一枚起請文]]』の「[[一文不知]]の愚鈍の身になして、[[尼入道]]の無智の輩に同じくして、智者の振る舞いをせずして、ただ[[一向]]に[[念仏]]すべし」（聖典四・二九九／昭法全四一六）の詞に最も端的に表されるところである。つまり、[[法然]][[浄土教]]における[[人間観]]とは、単に[[煩悩]]を有する人間を自覚するのみでなく、[[凡夫]]であるということにおいて人間の現[[実存]]在を捉え、それを自ら引き受けていくという能動的側面があるといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[浄土教]]の[[人間観]]が、[[実存]]的な観点から人間を[[凡夫]]、すなわち人間は[[仏性]]を有しつつも隠蔽されていると見るとしても、それは[[仏教]]的な、本質として「[[仏性]]有り」とする[[人間観]]を否定するものではない。むしろ、[[仏性]]を顕現しようとする実践の過程において、現[[実存]]在としてはそれが容易ではないという自覚に基づくものであり、[[仏道]][[修行]]に対する真摯な態度において捉えられてきた[[人間観]]であるといえる。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参考】恵谷隆戒「日本浄土教思想史上における凡夫性自覚過程について」（『仏教文化研究』一三、一九六六）、峰島旭雄「浄土教の人間観」（『仏教論叢』一一、一九六六）、西川知雄『法然浄土教の哲学的解明』（山喜房仏書林、一九七三）、髙橋弘次『改版増補　法然浄土教の諸問題』（同、一九九四）&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参照項目】➡[[凡夫]]、[[信機・信法]]、[[実存]]&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【執筆者：藤本淨彦】&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>192.168.11.48</name></author>	</entry>

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