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		<title>三縁 - 版の履歴</title>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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				<updated>2018-03-30T06:24:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:24時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

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		<title>2018年3月30日 (金) 06:24に192.168.11.48による</title>
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				<updated>2018-03-30T06:24:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=さんねん／三縁=&lt;br /&gt;
[[念仏]]する者だけが[[阿弥陀仏]]の[[光明]]に摂取されて、&amp;lt;ruby&amp;gt;[[親縁]]&amp;lt;rt&amp;gt;しんえん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;[[近縁]]&amp;lt;rt&amp;gt;ごんえん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;[[増上縁]]&amp;lt;rt&amp;gt;ぞうじょうえん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;という三種の[[利益]]を受けられることを説き示したもの。「さんえん」とも読む。摂取の[[三縁]]とも言う。[[善導]]が『[[観経疏]]』[[定善]]義で、『[[観経]]』第九[[真身観]]の「光[[明遍]]照[[十方]][[世界]]、[[念仏衆生摂取不捨]]」の文について、自らの[[宗教体験]]を踏まえながら、[[念仏]]する者が摂取される理由を述べたもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[親縁]]とは、[[称名念仏]]の[[行者]]が[[阿弥陀仏]]に対して、口に称え・身に礼敬し・心に念ずれば、[[阿弥陀仏]]はそれを聞く・見る・知るのであり、[[行者]]が[[憶念]]すれば[[阿弥陀仏]]も[[憶念]]する。[[阿弥陀仏]]は、このように[[称名念仏]]者の[[身・口・意]]の[[三業]]の一々を受けとめる。さらに、[[口称]]の[[念仏]]は仏を心に憶うことであるから、仏も[[行者]]を[[憶念]]する。[[阿弥陀仏]]と[[凡夫]]という間柄において、極めて親しい関係が成立することを語っている。[[本願成就]]の身である[[阿弥陀仏]]は、[[本願]]に基づく[[正定業]]の[[口称]][[念仏]]をする[[行者]]の[[往生]]を願う心に応えて、仏と[[凡夫]][[念仏]]者との間に親密な関係を成立させる。その有り様が、彼（[[阿弥陀仏]]）此（[[念仏]]者）の身口意の[[三業]]が相互に離れ捨てることがないと言われる。それは、[[念仏]]する[[衆生]]に限って[[三業]]に沿い従って人格的に呼応するという[[阿弥陀仏]]の働きである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[近縁]]とは、[[称名念仏]]の[[行者]]が[[阿弥陀仏]]を見たてまつりたいと願えば、仏はその[[称名]]（の声）に応じて[[行者]]の目前に現在するから、[[行者]]は仏を見たてまつることができる。すなわち、[[称名念仏]]一行の上に、[[行者]]の[[見仏]]の願いと仏がその声に応じて現れることとが実現する。[[念仏行者]]において、見ることができる[[機根]]と見ることができない[[機根]]の相違があるにしても、ここでは、目前に現在し給うと言っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[増上縁]]とは、[[称名念仏]]には罪を滅する働きがあるため、[[称名]]の[[行者]]は[[念仏]]相続によって[[次第]]に罪を滅し、遂に臨終には[[阿弥陀仏]]と[[聖衆]]の[[来迎]]を見たてまつりて、必ず[[浄土]]へ[[往生]]することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この[[三縁]]を[[善導]]の『[[観念法門]]』の一部で説く[[五種増上縁]]に配当するならば、[[親縁]]を証生縁に、[[近縁]]を[[護念]]・[[見仏]]の二縁に、[[増上縁]]を[[滅罪]]・摂生の二縁に、それぞれ当てはめることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[法然]]は、「かるがゆえに[[阿弥陀仏]]の[[三業]]と[[行者]]の[[三業]]と、かれこれひとつになりて、仏も[[衆生]]もおや子のごとくなるゆえに、[[親縁]]となづくと候めれば、御手にずずをもたせ給と候わば、仏これをごらん候べし。御心に[[念仏]]申すぞかしとおぼしめし候えば、仏も[[衆生]]を念じ給うべし。されば仏に見えまいらせ、念ぜられまいらする御身にてわたらせ給わんずる也。さは候えども、つねに御したのはたらくべきにて候也。[[三業]]相応のためにて候べし。[[三業]]とは身と口と意とを申候也。しかも仏の[[本願]]の[[称名]]なるがゆえに、声を本体とはおぼしめすべきにて候」（『[[往生浄土用心]]』昭法全五五九）と説き明かす中で、「仏の[[本願]]の[[称名]]なるがゆえに声を本体とはおぼしめすべき」と強調する。さらに、[[法然]]は[[近縁]]について平生と臨終とを挙げて、平生の義は「仏を念じる者は、仏、[[行者]]の身に近き故に[[光明摂取]]するなり」とし、臨終の義は「一切の[[念仏]]の行人、命終わらんと欲する時、仏、[[来迎]]し給う。[[九品]]の行人、一人も空しからず仏は[[来迎]]す」（『[[観経]]釈』昭法全一二二）とする。[[良忠]]は「今は見の機を挙げて以て[[近縁]]を釈す。設い見ずと雖も必ず来給う」と解し、「[[増上縁]]とは[[念仏]]、罪を滅する故に命終に臨んで聖を見たてまつる時、仏[[増上縁]]と為す」（『[[伝通記]]』[[定善]]義記三、[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0352 浄全二・三五二上]）といい、[[近縁]]の[[見仏]]は平生であり、[[増上縁]]の[[見仏]]は臨終であるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[法然]]は「光[[明遍]]照とは、此の文を釈するに三義あり。一には[[平等]]の義、二には[[本願]]の義、三には[[親縁]]等の義なり」（『[[観経]]釈』昭法全一二〇）といい、[[平等]]と[[本願]]という二義を加えて原理的に捉え、そのうえで[[善導]]の[[三縁]][[解釈]]をそのまま引用する。[[法然]]によると、[[三縁]]で語られることは、[[平等]]大悲の発露としての[[本願]]行そのものに裏づけられているということであろう。さらに、『[[選択集]]』では、第二章段[[正行]]篇の私釈において正雑[[二行の得失]]をいわゆる[[五番相対]]の論で判じるにあたって、第一と第二とで親・近の二縁釈をそのまま用いており、さらに、第七章段[[光明]]篇でこの[[三縁]]釈を引文し、私釈では「[[念仏]]は是れ[[本願]]なり。故にこれを照摂す」（聖典三・一三八／昭法全三二七）とする。このように、『[[選択集]]』では、[[正行]]（[[衆生]]の[[口称]][[念仏]]）と[[光明]]（[[阿弥陀仏]]の[[光明摂取]]）という双方向から語られている。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【資料】善導『観経疏』定善義、法然『観経釈』『選択集』『漢語灯録』『和語灯録』、良忠『伝通記』三、『決疑鈔』、聖冏『糅鈔』四〇、『直牒』&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
【参考】藤本淨彦「法然における『彼此三業不相捨離』の思想」（『法然浄土教の宗教思想』平楽寺書店、二〇〇三）&lt;br /&gt;
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【執筆者：藤本淨彦】&lt;/div&gt;</summary>
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