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		<title>一念多念 - 版の履歴</title>
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		<title>Seishimaru: 1版 をインポートしました</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;1版 をインポートしました&lt;/p&gt;
&lt;table class=&quot;diff diff-contentalign-left&quot; data-mw=&quot;interface&quot;&gt;
				&lt;tr style='vertical-align: top;' lang='ja'&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;← 古い版&lt;/td&gt;
				&lt;td colspan='1' style=&quot;background-color: white; color:black; text-align: center;&quot;&gt;2018年3月30日 (金) 06:19時点における版&lt;/td&gt;
				&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td colspan='2' style='text-align: center;' lang='ja'&gt;&lt;div class=&quot;mw-diff-empty&quot;&gt;(相違点なし)&lt;/div&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;</summary>
		<author><name>Seishimaru</name></author>	</entry>

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		<title>2018年3月30日 (金) 06:19に192.168.11.48による</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=いちねんたねん／一念多念=&lt;br /&gt;
[[念仏]]を一回称えることと多く称えること。一回の[[念仏]]でも[[往生]]できるか、[[念仏]]は多く称えなくてはならないかということが、[[法然]]およびその門下において大きな問題となった。すなわち「[[一念]]か多念か」という問題である。この[[一念]]・多念の問題は信と行の関係とも密接に連関しており、信をより重視する者は[[一念]]重視、行をより重視する者は多念重視となる傾向が強い。よって、「[[一念]]・多念」は「信・行」の問題と表裏をなすといってもよい。そもそも『[[無量寿経]]』においては、第十八願に「[[乃至十念]]」（聖典一・二二七／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0007 浄全一・七]）、その成就文には「[[乃至]][[一念]]」（聖典一・二四九／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0019 浄全一・一九]）とあるため、少なくとも「[[一念]]・[[十念]]」でも[[往生]]できるということになる。[[善導]]も、「[[十声]]一声等に至るまで定んで[[往生]]を&amp;lt;ruby&amp;gt;得&amp;lt;rt&amp;gt;う&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」（『[[往生礼讃]]』[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0354 浄全四・三五四下]）と説く。ただし、その一方で「念念に捨てざる者、これを&amp;lt;ruby&amp;gt;正定&amp;lt;rt&amp;gt;しょうじょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;業&amp;lt;rt&amp;gt;ごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と名づく」（『[[観経疏]]』聖典二・二九四／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0058 浄全二・五八下]）というように、[[念仏]]を続けてゆくことこそが「[[正定業]]」、すなわち[[往生]]を決定づける因になるとも述べる。ここにはすでに[[一念]]か多念かの問題が内在するが、[[善導]]においてはその点はいまだ表だって問題とはなっていない。一方、日本の平安時代の[[浄土教]]は、[[一念]]・[[十念]]による[[往生]]も説くが、基本的には[[念仏]]は多ければ多いほどよいという[[念仏]]数量主義の立場に立っていた。[[百万遍念仏]]などは、まさにその典型といえよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それに対し、[[法然]]は[[一念]]・[[十念]]で[[往生]]が可能なことを強調した。例えば、『[[禅勝房にしめす御詞]]』では「[[一念]]称うるに一度の[[往生]]に宛てがいて発したまえる[[本願]]なり。かるが故に[[十念]]は十度生まるる[[功徳]]なり」（聖典四・四三二／昭法全四六三）、『[[一紙小消息]]』では「行少しとて疑うべからず、[[一念]][[十念]]に足りぬべし」（聖典四・四二〇／昭法全四九九）と説かれるなど、その例は多い。[[念仏]]数量主義の当時にあって、この[[一念]]での[[往生]]の強調は画期的といえる。ところが、その同じ『[[一紙小消息]]』で「行は[[一念]][[十念]]虚しからずと信じて&amp;lt;ruby&amp;gt;無間&amp;lt;rt&amp;gt;むけん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に修すべし、[[一念]]なお生まる、いかにいわんや多念をや」（聖典四・四二一／昭法全五〇〇）というように、[[一念]][[往生]]を認めつつ、実際には多念を勧める。この多念の勧めは[[法然]]遺文の諸所に見られ、[[法然]]自身も日に六万・七万の[[念仏]]を修したと伝えられる（『[[四十八巻伝]]』六）。つまり、[[法然]]は[[一念]]・[[十念]]での[[往生]]を明言しつつ、多念を勧めていたわけであるが、[[法然]]自身はそのいずれにも偏るべきでないことを強調している。例えば、『[[禅勝房にしめす御詞]]』の「[[一念]][[十念]]にて[[往生]]すといえばとて[[念仏]]を疎相に申せば信が行を妨ぐるなり。念念不捨といえばとて[[一念]][[十念]]を&amp;lt;ruby&amp;gt;不定&amp;lt;rt&amp;gt;ふじょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に思えば行が信を妨ぐるなり」（聖典四・四三三／昭法全四六四）という一文には、そのことが端的に示されている。したがって「信をば[[一念]]に生まると取り、行をば&amp;lt;ruby&amp;gt;[[一形]]&amp;lt;rt&amp;gt;いちぎょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（＝一生涯）励むべし」（同）ということになるのである。これと同様の[[法語]]は、『[[十二問答]]』や『[[登山状]]』など、複数の[[法然]]遺文に見られるので、[[法然]]の基本的立場と見てよい。すなわち「[[一念]][[往生]]を信じつつ多念せよ」という立場である。ただし、それではなぜ[[一念]]で[[往生]]できるのに多念しなくてはならないかという問題が生ずるが、それに関しては[[法然]]の説明は一定しておらず、何種類かの説明が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[門弟]]たちはこのような[[法然]]の教えを各人各様に受け止めていったが、それらは大別して「[[一念]]・信」を重視する「[[安心]]派」と「多念・行」を重視する「[[起行派]]」に二分される。まず、「[[一念]]・信」を重視する最右翼はいわゆる「[[一念義]]」であろう。「[[一念]]で[[往生]]できるのだから多念する必要はない。むしろ、多念は[[一念]]での[[往生]]を本当に心の底から信じていない証拠であって、[[阿弥陀仏]]の誓いに[[疑心]]を抱いていることになるので、かえって[[往生]]できない」（『[[登山状]]』『[[一念義停止起請文]]』等）とする主張である。なかでも[[行空]]は「念とは思いとよむ。されば[[称名]]に非ず」（[[聖光]]『[[西宗要]]』[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0228 浄全一〇・二二八下]）というように、[[一念]]さえ否定したと伝えられる。また、[[幸西]]も「[[一念義]]」を説いたが、ただし[[幸西]]の場合は「[[仏智の一念]]」を重視しつつも、必ずしも多念を否定しているわけではなかったようである。それと同様のことは[[親鸞]]にも当てはまる。[[親鸞]]は明らかに信を重視したが、[[隆寛]]の著した『[[一念多念分別事]]』を書写して、[[一念]]に傾きがちな[[門弟]]に付与し、誡めとしている。とはいえ、やはり[[安心]]派は多念を積極的に説かないという点で共通しているといえよう。それは「[[四修]]」「[[念仏]]相続」といった多念と関連する言葉が、[[幸西]]や[[親鸞]]の文献にまったく、もしくはほとんど現れない点から窺い知ることができる。それに対し、[[起行派]]とされる「[[鎮西義]]」の文献には、[[一念]][[十念]]での[[往生]]を強調する文言も決して少なくはないものの、[[安心]]派の文献に比べ、多念を勧める文言が断然多いのが特色といえる。例えば、[[聖光]]『[[西宗要]]』一二「[[四修]]事」（[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0163 浄全一〇・一六三下]～六上）では、末代の[[凡夫]]であっても[[四修]]は必ず具えるべきであるとし、「&amp;lt;ruby&amp;gt;[[長時修]]&amp;lt;rt&amp;gt;じょうじしゅ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;・&amp;lt;ruby&amp;gt;[[無間修]]&amp;lt;rt&amp;gt;むけんじゅ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」を強調している。また、同じく[[聖光]]の『[[授手印]]』序（聖典五・二二四／[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0001 浄全一〇・一上]）では、自ら五万・六万の[[念仏]]を修し、人にも「[[称名]]の多念をもって[[浄業]]と教ゆ」と述べられる。さらに「[[諸行本願義]]」の[[長西]]もやはり『[[専雑二修義]]』（[[石橋誡道]]『[[九品寺流長西教義の研究]]』二〇五～七）で[[四修]]を強調し、（[[諸行]]も含め）行の相続を不可欠としている。なお古来、「[[多念義]]」とされてきた[[隆寛]]に関しては、近年、全体的には「[[安心]]派」の傾向を持つことが指摘されているが、[[念仏]]に関しては[[一念]][[十念]]の[[往生]]と多念相続のいずれも説き示しているといえよう。&lt;br /&gt;
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【参考】安井広度『法然門下の教学』（法蔵館、一九六八）、丸山博正「法然上人における一念と多念」（浄土教思想研究会編『浄土教—その伝統と創造』二、山喜房仏書林、一九八四）、安達俊英「法然浄土教における多念相続の意義」（『髙橋弘次先生古稀記念論集　浄土学仏教学論叢』一、同、二〇〇四）&lt;br /&gt;
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【参照項目】➡[[一念]]、[[安心派・起行派]]、[[一念義]]、[[多念義]]&lt;br /&gt;
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【執筆者：安達俊英】&lt;/div&gt;</summary>
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