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J2910 生実大巌寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0082A01: 原式部少輔胤榮は小田原にて安譽の和降を信義の爲
J20_0082A02: にうけられずして程なく落城せしかばひそかに敗績
J20_0082A03: の兵卒を集め生實城に入
J20_0082A04: 一説に胤榮小田原には子息胤光三郞を遣せ家士大
J20_0082A05: 和田左近寒川縫殿助同八郞同十郞木内七郞右衞門
J20_0082A06: 木村十兵衞芝崎又八郞和田五郞等三百餘騎にて籠
J20_0082A07: らせ自身は臼井城に立構佐原十郞左衞門海上右京
J20_0082A08: 木内左馬助同三郞蓮沼文五郞木戸右衞門尉高木民
J20_0082A09: 部丞高木太郞右衞門同又次郞貝塚文右衞門等七百
J20_0082A10: 八十騎にて籠しかど小田原落城前後諸手關東の諸
J20_0082A11: 城を攻しかば家士を集め議しけるは今度豐臣氏日
J20_0082A12: 本國中の兵士を集め攻下とあれば北條家の廢亡此
J20_0082A13: 時なるべし我家の正統千葉は關東の三家と稱せら
J20_0082A14: れ諸士の上座たる事謙倉二位殿より以來替事なし
J20_0082A15: 足利氏に屬せし後も是に同じかりしに一族互に攻
J20_0082A16: 戰起り馬加陸奧守本家を押領せしより市川石濱等
J20_0082A17: にわかれあり故に我家又馬加に組しかく大家と成
J20_0082B18: しかど北條の弓矢するどにして兩上杉負軍越後へ
J20_0082B19: 敗走後天文年中より北條家に歸順する事頗る家の
J20_0082B20: 瑕瑾なり今家の爲子孫の爲叛心を顯し下向の士と
J20_0082B21: ともに小田原に敵すべきはいかがと有し時高木民
J20_0082B22: 部丞進出て云此事無用たるべしたとへ豐公日本の
J20_0082B23: 勢を以攻らるるとも小田原名城箱根難所其上關東
J20_0082B24: の諸士一同籠居人質有之上は主從の人質も彼方に
J20_0082B25: 有又今微勢を以上方軍とともに叛逆の色を起すと
J20_0082B26: も近國の士ことことく來りて攻ん事兩三日の間な
J20_0082B27: りさる時は却て災をまねくに同じ速に小田原とと
J20_0082B28: もに運をともにせらるべしと云しかば大身の者は
J20_0082B29: 皆皆妻子小田原に有ければいづれも同意しけるに
J20_0082B30: ぞ扨はと臼井に籠城ありしなり然れども堅守微勢
J20_0082B31: なるが故に潜に彼城を出生實城に入りしのちかの
J20_0082B32: 城は忽ち降參又は討死し落城す是當年五月十八日
J20_0082B33:
J20_0082B34: 入城後乞降の許ありしかど豐公の命として岩付松井

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