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雅楽

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ががく/雅楽

日本の最も古い古典音楽。正統の音楽を意味し、「俗楽」に対する言葉。日本の「雅楽」は、日本古来の歌と舞、古代のアジア大陸から伝来した器楽と舞が日本化したものと、その影響を受けて新たにできた歌の総称をいう。

[渡来編]

天平勝宝四年(七五二)四月九日、奈良・東大寺大仏殿では盧舎那仏るしゃなぶつ開眼法要に際し、天竺高僧菩提倦那ぼだいげんな導師として招き、荘厳法要が営まれた。大仏殿には、天皇はじめ皇族、公卿、高僧らが参列し、堂外にも数千人の善男善女が溢れて、大仏開眼の悦びに浸った。そして前庭の舞台では祝いの大音楽会が催され、アジア各地の芸能が披露された。ベトナム・インドの音楽と舞である林邑楽りんゆうがく天竺てんじくがく、チベット仮面劇を思わせる伎楽ぎがく、シルクロードの国々の胡楽、朝鮮半島の高麗楽こまがく、盛唐の宮廷音楽である唐楽とうがく、そして日本古来の久米舞くめまい楯伏舞たてふせまいなども演ぜられた。この催しを行うために、太政官はあらかじめ治部省(律令八省の一)の中に雅楽うたづかさを置き、アジア各地より指導者を招いて楽人、舞人を養成してきた。大仏開眼供養時の各国の芸能の演技演奏は、外国の師匠たちと日本人生徒の混成芸能団だったという。披露された各国の芸能の中で、ひときわ輝いて見えたのが唐楽であった。色彩鮮やかに刺繡を施した総絹製の豪華な衣装を纏った舞人たち、一八種に及ぶ多くの楽器を整然と奏でる楽人たち。中国・唐の玄宗皇帝が開いた世界最高の音楽教習所「梨園」の宮女・子弟の演奏さながらで、大勢の聴衆を圧倒した。この演奏に魅せられた日本の若者たちは、こぞって唐楽を学ぶようになり、中には遣唐船に便乗して唐への留学を望む者もいた。その中の尾張連浜主おわりのむらじはまぬしが大仏殿前でアジア大音楽祭を聞いたのは二〇歳の頃である。浜主は熱田神宮の神官の身で舞と龍笛を学んでいたが、大仏殿音楽祭で生演奏の唐楽に接して、その素晴らしさに感動し、唐に留学することを熱望した。浜主の熱意はかなえられて、唐にわたり横笛と舞を修めて帰国、日本に横笛を広め、後に「横笛の祖」と仰がれた。また多くの舞も習い覚え、左舞の名曲「蘭陵王らんりょうおう」を伝え、大内楽所(京都楽人)の伶人れいじんに伝えた。そしてその後の日本の雅楽の構築に尽力した。

[伝承編]

平安時代初期(八二〇年頃)の日本は優れた音楽家を輩出し、唐楽の合奏研究および作曲が盛んに行われた。長年、研究を繰り返した結果、唐楽を日本人の音楽「雅楽」に換えようという結論を出した。音楽の中に、自然が醸す四季の彩りや日本人独特の曖昧なリズムを取り入れ、そして日本人の好む音色に変革することなどが彼等の目指す「日本の雅楽」構築の基盤にあった。理路整然として壮大かつ明解な中国音楽と、微妙な音程感覚を有する日本人の音楽観は相容れないものであった。唐楽の日本化(和風化)はまず楽器の取捨選択から始められ、一八種を数える楽器の中で、日本人に不向きなものを廃して半減し、管楽器を三管(しょう篳篥ひちりき龍笛りゅうてき)、絃楽器を両絃(琵琶びわしょう)、打楽器を三鼓(鞨鼓かっこ太鼓たいこ鉦鼓しょうこ)の八種とした。そして、七声音階の唐楽音律と五声(陰陽)の日本音階の併行を試み、この唐・和の不協和音の旋律が「照りとかげり」を現すこととなり、響きに抑揚と深みとが増した。この楽器編成の縮小と音律の日本化(和風化)運動には約五〇年の歳月がかかったが、これによって雅楽は親しみ易い音楽となった。天皇はじめ公卿・高僧たちが楽器や歌を習って詩歌管絃の合奏を楽しむようになり、雅楽は平安時代中期に隆盛を極めた。その後、雅楽は時代の変遷によって、浮沈をさまよったが、楽人たちは幕府や諸寺社の援助を得て、累代楽家の責任と雅楽への愛着をこめて継承し、平安時代の美意識を今日に伝えている。


【参照項目】➡舞楽五音


【執筆者:芝祐靖】