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院号

提供: 新纂浄土宗大辞典

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いんごう/院号

上皇・女院にょいんなどの尊称、寺院の称号、戒名としての尊号のこと。天皇譲位後の太上だいじょう天皇の御所の地名が、その尊称として院号に用いられ、嵯峨天皇(在位八〇九—八二三)が譲位したときに嵯峨院と称した。その後、在位中に崩御した天皇に追号として院号を贈るようになった。女院の院号は、一条天皇の母である皇太后藤原詮子(九六二—一〇〇二)に東三条院と尊称したのが嚆矢こうしである。門院号は、一条天皇の皇后藤原彰子(九八八—一〇七四)に上東門院と尊称し、後に院号宣下が行われるようになった。摂関家での院号は、関白藤原兼家(九二九—九九〇)の薨去こうきょ後に法興院如実と称したのが嚆矢である。法成寺を建てた藤原道長(九六六—一〇二八)はその寺号法号の上に冠した。寺院を建立して隠栖いんせい入道した人の法号は、寺院の名称を出家または没後に寺号院号として冠するようになった。足利尊氏(一三〇五—一三五八)が、没後に等持院殿と号したので、後の歴代将軍は院殿号を冠した。院の下に殿を付したのは皇室と区別するためであったとみられるが、院殿号のほうが上位に位置するものとみなされるようになり、院号は第二位の称号となった。寺家では門跡寺院をはじめ皇族・貴族出身の止住する院家いんげの僧にも院号が用いられた。増上寺では院家に列する尊宿に対し蓮社号の上に冠する院号を授与している。このように院号は、当初天皇と三后(皇后・皇太后・太皇太后)のみであったが、摂家と将軍家にも用いられるようになり、江戸時代以降は武家から広く民衆まで院号を付されるようになった。法号の上に冠する号は院号院殿号をはじめ軒号・庵号などがある。浄土宗総合研究所編『戒名—その問題と課題』では、戒名および戒名授与に関する提言を示し、戒名念仏者の証であり、院号位号は明確な基準で授与すべきであるとした。院号位号授与に際しては、これまで〈家〉を基準としてきたが、近年伝統的な家制度は崩壊し、新たに家族を中心とした〈家〉へと変化し、さらに〈家〉から個人・夫婦単位へと移行しつつあると指摘、院号位号などは当該人にふさわしい内実が伴うべきであるとした。


【資料】大雲『啓蒙随録』


【参考】藤井正雄『戒名のはなし』(吉川弘文館、二〇〇六)、浄土宗総合研究所葬祭仏教研究班『戒名—その問題と課題』(浄土宗、二〇〇一)


【参照項目】➡戒名院殿号院家庵号


【執筆者:西城宗隆】


寺院三号山号院号寺号)の一つ。寺号とは別に付けた称号、または塔頭たっちゅうなどの寺院名。院は土塀をめぐらした建物をいう。中国では官舎をはじめ僧・儒者・道士の住居も院と称した。大慈恩寺などの翻経ほんぎょう院(経の翻訳所)のように寺内の一部の別称となり、寺を総号として院を寺中にある別舎の号とした。さらに皇族が門跡となっている寺院院号が下賜されるようになった。日本でも寺内に悲田院施薬院などをはじめ、大寺院子院塔頭)に院号を用いるようになり、次第に各寺院山号寺号とともに院号を付けるようになった。山号寺院名の最上に冠する称号。寺院は山中に多く建てられたところから、その山の名を寺院名に冠するようになった。平地にあっても、住山の心をもって浄業を修そうとするために山号を付けた。寺山院の三号華頂山大谷知恩院三縁山広度院増上寺がその例である。


【資料】『啓蒙随録』二


【執筆者:西城宗隆】