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遵西

提供: 新纂浄土宗大辞典

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じゅんさい/遵西

—建永二年(一二〇七)二月九日。法然の直弟子房号安楽俗名中原師広なかはらもろひろ少外記中原師秀しょうげきなかはらもろひでの息子で、大蔵卿高階泰経おおくらきょうたかしなのやすつねに仕えたが後に出家した。美声の上に声明音楽の才があったといわれ、住蓮とともに哀調を帯びた六時礼讃を唱え、多くの人々をひきつけて専修念仏をひろめた。建久三年(一一九二)の後白河法皇追善に、住蓮とともに六時礼讃を修したり、東山霊山寺りょうぜんじでの別時念仏に加わったりしている。法然が『選択集』を撰述するにあたっては、父師秀の才を受け継いでか、その執筆役を命ぜられるほどであった。しかしそのことに憍慢きょうまんの心を抱いたとみなした法然は、その役を第三章の途中から真観房感西に交代させている。またこの遵西が鎌倉へ下って弘教した折に、その『選択集』の講説を聴き、石川道遍金光房を誘って、専修念仏帰依し、上洛して法然の門に入ったとされる。元久の法難では、法然が門下を戒めて一九〇名が名を連ねた元久元年(一二〇四)の『七箇条制誡』において、門弟としての署名を三〇番目に残している。その後同二年には、住蓮とともに藤原隆信の臨終時の善知識をつとめている。そのころ南都北嶺念仏者弾圧は鎮まらず、翌三年二月興福寺五師三綱ごしさんごうによって、法然をはじめ、住蓮、成覚房幸西らとともに訴えられ、特に遵西はその諸人の勧進をあおり、法本房行空一念往生の義を立てたと指弾された。このとき行空法然破門されたが、遵西らは直接の科を猶予されたようである。ところが、同年(建永元年)一二月後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、遵西は、住蓮東山鹿ししたに六時礼讃会を営んだ。多くの人々が帰依渇仰する中に、上皇の小御所こごしょの女房ら二人の女人(松虫・鈴虫)が出家した。これを知った上皇の怒りに触れ、法然門下への弾圧が強まり、間もなく建永二年二月官人秀能(如願房安蓮)の手によったとされるが、遵西は京都六条河原ろくじょうがわらで斬罪となった。さらに法然は流罪にされた。これが後に建永の法難といわれた。


【資料】東京大学史料編纂所編『大日本史料』四—八・建永元年二月一四日条(『三長記』)、同四—九・承元元年二月一八日条(『明月記』、『皇帝紀抄』、『愚管抄』)、『四十八巻伝』一二、三三(聖典六)


【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)


【参照項目】➡建永の法難住蓮


【執筆者:野村恒道】