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西念寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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さいねんじ/西念寺

東京都葛飾区新宿にいじゅく。覚林山宝樹院。東京教区№三七三。江戸時代の触頭ふれがしら寺院末寺七箇寺を有した。文安五年(一四四八)浄円が草庵を結んだのが濫觴らんしょうとされ、『浄土宗寺院由緒書』(元禄八年〔一六九五〕)では、天文元年(一五三二)法誉が開山として創建したが、四代前の讃誉のとき自火により焼失して由緒が不詳とある。その後元禄一四年(一七〇一)一六世尊誉が朝日の弥陀と称す源信作と伝える阿弥陀三尊を安置した。また熊谷蓮生笈仏おいぶつ法然自作とされる円光大師の木像も祀られている。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『新編武蔵国風土記稿』二六


【執筆者:野村恒道】


長野県佐久市岩村田。一行山無量寿院。長野教区№一四七。開山岌往岌往は伊勢国に生まれ美濃から信濃、甲斐まで武田信玄の動きに前後して約七〇箇寺の寺院を建立した。定朝様式を伝える高さ五尺八寸の阿弥陀如来坐像を本尊としている。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などに仕えた初代小諸藩主仙石秀久は当寺を菩提寺と定め、後に岩村田藩主に就いた内藤正弼まさすけ菩提寺と定め、徳川家康をはじめ徳川将軍の位牌を奉安している。


【執筆者:東谷敬信】


三重県鳥羽市鳥羽。春曜山実相院。伊勢教区№二四一。孝謙天皇の建立と伝える。もとは鳥羽城三の丸にあった。一時山号は春雷山であった。文禄三年(一五九四)九鬼大隅氏築城のため奥谷(現在の場所)に移り、その際に弁財天を勧請、現在の山号となる。また、鳥羽城主内藤氏の菩提寺となる。触頭ふれがしらでもあった。初代鳥羽城主橘宗忠、内藤家三代の墓がある。


【資料】『蓮門精舎旧詞』一二(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)


【参考】全日本仏教会寺院名鑑刊行会編『全国寺院名鑑』(史学センター、一九八三)


【執筆者:横井大覚】


香川県仲多度郡まんのう町羽間はざま。仲津山浄土院。羽間の新黒谷と称す。南海教区№二三。法然建永の法難で讃岐国子(小)松庄の生福寺に逗留のとき念仏教化したと伝える遺跡。土器どき川の東にある丘陵地の景観が京都の東山に似ているので、法然はこの地に草庵を結んだという。当寺は天正二年(一五七四)高松浄願寺八世円誉が隠居して丸亀の中津に建立したが、寛文六年(一六六六)現在地に移転。同八年高松藩主松平頼重は生福寺の旧跡を移して仏生山法然寺を建立するため、当寺の銅造仏像を遷したという。境内東の西念寺山には湛空法然の遺骨を納めて宝塔を建立したと伝える法然堂があり、その参道には一七世仁誉(一八二七—一八三六在住職)代建立の法然上人二十五霊場の写し霊場がある。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三六(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)、『讃岐国名勝図会』一一(『版本地誌大系』二〇、臨川書店、一九九九)


【参考】浄宗会編『円光大師法然上人御霊跡巡拝の栞』(知恩院、一九九六)、『配流八〇〇年追恩 讃岐の法然上人』(浄土宗南海教区教務所、二〇〇七)


【執筆者:山本博子】