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浄国寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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じょうこくじ/浄国寺

さいたま市岩槻区加倉。仏眼山英隆院。埼玉教区№七三。関東十八檀林の一。天正一五年(一五八七)岩槻城主太田氏房が勝願寺清巌を招請して建立。翌年法談を行うと、清巌の名声をしたって参集するものが多く、氏房は規制の法度を出すほどであったという。同一九年徳川家康から五〇石の朱印地を得て経済的基盤を確立した。翌年清巌の死後も所化衆は修行を続けており、清巌在世時から檀林寺院であったものと考えられる。寛永二〇年(一六四三)岩槻城主阿部重次が徳川家康・秀忠の供養料として二〇石を寄進した。また城主阿部家の菩提寺ともなり発展した。同寺には太田氏房・徳川家康・全阿弥などの成立当初の古文書類が現存し、浄国寺の成立と発展を明らかにしている。また『浄国寺日鑑』は浄土宗にとって貴重な資料である。


【資料】『岩付浄国寺志』


【参考】宇高良哲『浄土宗檀林古文書選』(東洋文化出版、一九八二)、『岩槻市史』(岩槻市史編さん室、一九八五)【図版】巻末付録


【参照項目】➡関東十八檀林


【執筆者:宇高良哲】


千葉県銚子市春日町。文化七年(一八一〇)以前は東照山称讃寺と号していたが、現在は一立山無衰院。無衰林と通称される。千葉教区№九四。建長七年(一二五五)良忠開山。海上氏の開基。寛永四年(一六二七)一二月に焼失したが、翌年五月に当寺二世教誉晫助が諸堂を再建し中興となった。その後、寛文元年(一六六一)に三世顕誉智典が庵室を訪ね、現在の地に一寺を建立することを願い、深川霊巌寺末寺となった。享保八年(一七二三)五月にも全山焼失し、昭和二〇年(一九四五)の戦火でも本堂・能野堂などを焼失したが、現在はすべて復興。境内には望西台と呼ばれる庵があり、渡辺華山や小林一茶をはじめとする数多くの文人墨客が訪れた。


【資料】摂門『深川霊巌寺志』(浄全二〇)


【参考】『千葉県海上郡誌』(千葉県海上郡教育会、一九一七)、『銚子市史』(銚子市史編纂委員会、一九五六)、『千葉県浄土宗寺院誌』(千葉県浄土宗寺院誌刊行委員会、一九八二)


【執筆者:杉山裕俊】


広島市中区土橋町。無衰山古今院。広島教区№四八。開山は短誉文慶。天正年間(一五七三—一五九二)に安芸国高田郡吉田村(広島県安芸高田市)に建立。慶長年間(一五九六—一六一五)に福島正則の勧めに応じ、毛利輝元の別邸、福島家の下屋敷のあった当地へ移転。文慶は、徳川家康の竹馬の友であったことから、徳川家康公陣装像、陣羽織、蓮糸蘆山袈裟など縁の品が現在まで伝わる。境内には、原爆で被爆した地蔵尊、墓石等があり、宮島杓子を考案した、宮島の恩人と称される僧誓真の墓所もある。


【参照項目】➡誓真


【執筆者:佐藤和順】


大分県国東くにさき市安岐町瀬戸田。亀鶴きかく一千かずち院。大分教区№二〇。真誉莫無まくむによって元亀元年(一五七〇)に開かれる。創建時期は浄土宗寺院としては国東半島で最も早い。莫無は当地狩宿村出身で師僧は府内(豊後国)浄土寺三世雲誉。当寺は初め草庵であったが、開基片山越後守が「莫無が学業を成したなら、一寺の開山としよう」と誓ったことから、天正五年(一五七七)江戸増上寺での檀林修学より戻った莫無が草庵を再興する。本尊阿弥陀三尊像慶派仏師康正の作。


【資料】『蓮門精舎旧詞』四〇


【執筆者:手嶋秀法】