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望月信亨

提供: 新纂浄土宗大辞典

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もちづきしんこう/望月信亨

明治二年(一八六九)九月二四日—昭和二三年(一九四八)七月一三日。晃蓮社昱誉明阿望無雲。仏教学および浄土学における世界的研究者。宗教大学学長、大正大学学長、金戒光明寺法主を経て、知恩院八二世。福井県今立郡国高村字村国(現・越前市)松原新六兵衛の五男として誕生、幼名は勝次郎。同一三年九月に福井県坂井郡新保村(現・坂井市)・円海寺の加納法宣について得度、名を信亨と改める。同一九年浄土宗西部大学林入学、同二一年九月に浄土宗学本校に入学する。同二六年には神戸市兵庫区江川町藤之寺住職・望月有成の養子となり、望月と改姓。同三二年には浄土宗高等学院教授に就任するが、同三八年四月に自らが主宰する雑誌『宗粋』誌上において宗務当局と宗政を批判したとして職を解かれる。これを機に雑誌『宗粋』を廃刊、鷲尾順敬等と日本宗教協会を設立し『宗教界』の創刊を企画する。同三九年七月には宗粋社から『法然上人全集』を刊行。不朽の名著である『仏教大辞典』の刊行編集作業はこの頃から着手された。同四一年六月には宗教大学に復職、大学業務のかたわら『仏教大辞典』刊行の資金調達を行うため『仏教大年表』を同年一二月に刊行する。同四四年五月に浄土宗執綱、大正三年(一九一四)三月には宗教大学の学長に就任する。同四年四月に『大日本仏教全書』刊行開始に伴い、そこで収集した浄土宗関係の未刊典籍が散逸することを恐れた望月は岩崎敲玄等と共に「宗書保存会」を結成、『続浄土宗全書』全一九巻の刊行作業を並行して行っていく。同一一年『大乗起信論之研究』を刊行。同年一一月には『大日本仏教全書』刊行事業が一応終了し、ここに全巻一五〇冊および別巻『図像抄』全一〇巻、目録一巻という一大叢書が完結する。同一三年九月には学位論文「浄土教の起原及び発達に関する研究」により、東京大学から文学博士を授与される。昭和五年(一九三〇)四月に大正大学第三代学長に就任する。また同月に学位論文「浄土教の起原及び発達に関する研究」を整理し『浄土教の起原及発達』として共立社より刊行した。同六年一月、『仏教大辞典』第一巻組版の作成を開始する(同一二年に全七巻刊行終了)。同一三年一月に大本山金戒光明寺への晋董が決定し、四月七日に晋山式を行う。同一七年四月には金戒光明寺山内清心院に望月仏教文化研究所を創設する。一一月には大正大学名誉教授に推薦される。同二〇年三月には浄土宗管長ならびに知恩院門跡となる。同二一年三月には、事実上、最後の研究書となる『仏教経典成立史論』を法蔵館から刊行。同二三年七月上旬から容態が悪化し一三日に遷化


【参考】金山正好・香月乗光編『望無雲遺芳』(望月博士記念会、一九五〇)、望月信亨先生三十三回忌追悼会世話人会編『恩師望月信亨先生』(山喜房仏書林、一九八〇)


【執筆者:柴田泰山】