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御臨終日記

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ごりんじゅうにっき/御臨終日記

著者不明。法然没年の建暦二年(一二一二)から法然滅後三〇年(一二四二年)頃までの成立。主として法然の臨終および臨終に至る三週間ほどの有り様を記した書。『醍醐本』、『西方指南抄』中本、『拾遺漢語灯録』所収。ただし『西方指南抄』での題は「法然聖人臨終行儀」、『拾遺漢語灯録』では『浄土宗見聞けんもん』の「つけたり」として「臨終記」(大徳寺本)「臨終祥瑞記」(義山版)という題で所収。後続の法然伝における臨終の記事は、その多くがこの文献に依ったものと考えられる。内容は以下の通り。建暦元年(一二一一)一一月一七日、入洛の許可がおり、二〇日帰洛。この二、三年はかなり衰弱していたが、翌二年正月二日から意識が明瞭となり、高声こうしょう念仏が絶えることなし。三日には、もと天竺声聞僧と共に頭陀ずだ行を行っていたが、日本に生まれて天台宗に入り念仏を弘めたことを述べ、更には往生は確かかという弟子の問いに対して「我もと極楽りし身なれば然るべし」(昭法全八六八)と答えている。一一日には弟子に、弥陀等が眼前にましますことを告げると同時に、この十数年来の三昧発得の事実を明かす。また五色の糸を取ることを拒否。二〇日には人々が紫雲を見る。これは人々に念仏を信ぜしむために示したものと告げる。また目を西から東へ動かすこと五、六遍。二四日、樵夫や尼が紫雲たなびくのを報告。二三日より二五日まで、念仏不退。助音の弟子が疲れるほど。二五日の正午、慈覚大師九条袈裟を着し、頭北面西にして、「光明遍照」の文を唱えつつ命終。後日、ある者が消息で、数年前に法然が「光明遍照」の文を唱えて往生する夢を見たことを報告。このあと『醍醐本』と『拾遺漢語灯録』所収本では奥書があり、阿育王の逸話になぞらえつつ、今や法然滅後三〇年になり、直接教えを受けた者も少なくなりつつあるので、記録を残すために「見聞」したことを記すと述べる。ただし、これは『醍醐本』の場合、どの部分に対する奥書か不明なものの、『拾遺漢語灯録』の場合なら『浄土宗見聞付 臨終記』全体の奥書と見なせる。なお上記の「我本極楽に在りし身」の一文は、もしこれが事実なら、法然還相回向している浄土菩薩ということになるが、法然は自身を「(三学非器の)凡夫」と見なしており、また『乗願上人伝説の詞』(昭法全四六七)の「この一生でこそ往生したいものだ」という発言、および『御消息』(昭法全五七六)の「往生してからでないと布教は無理か」という嘆きのことばなどと合致せず、この一文をどのように理解すべきかには、法然研究上の問題点の一つとなっている。


【所収】昭法全、法伝全、浄全九


【資料】梶村昇・曽田俊弘「新出『大徳寺本拾遺漢語灯録』について」(『浄土宗学研究』二二、一九九六)、『定本親鸞聖人全集』五


【参考】中野正明『増補改訂法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二〇一〇)


【参照項目】➡法然上人伝記附一期物語拾遺漢語灯録


【執筆者:安達俊英】