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常念寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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じょうねんじ/常念寺

山形市三日町。義光山明王院。山形教区№一九。天正年間(一五七三—一五九二、同一一年〔一五八三〕とも)良雄舜翁が不動山明王院を開山。のち領主最上義光よしあきが専阿を招請し中興三世とし、寺領一〇〇石を寄進。山号を義光山、寺号常念寺と改めた。慶長四年(一五九九)勅額を賜るも元和七年(一六二一)の大火で焼失。正徳元年(一七一一)中御門天皇の勅額を賜る(現存)。その後も二度大火で類焼するも再建。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【執筆者:中野真理子】


山形県鶴岡市睦町。鶴岡山円通院。山形教区№九四。天文二年(一五三三、大永三年〔一五二三〕とも)寂誉雲公が天翁寺を開山。慶長八年(一六〇三)最上義光よしあきが庄内を領すると、山形城下常念寺専阿を招き中興五世とし、嫡男義康追善のため鶴ヶ岡での菩提寺とし、寺名を常念寺と改め寺領一三八石余を寄進。元和八年(一六二二)最上氏が改易され、酒井氏入部ののち現在地に移転。戊辰戦争戦死者三七名の墓がある。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【執筆者:中野真理子】


滋賀県野洲市永原。明鏡山極楽院。滋賀教区№一九三。往古は天台宗寺院であったと伝えるが詳細は不明。浄土宗寺院としては、応永三年(一三九六)常誉真厳によって草創され、その後、永正三年(一五〇六)に永原城主永原重秀が大旦那となり本格的に堂舎を建立し、栗東市東坂、阿弥陀寺三世厳誉宗真を招き中興開山としたと思われる。以後、永原氏の菩提所となり、また金勝山阿弥陀寺と並び安土浄厳院の筆頭格の末寺となった。天正四年(一五七六)織田信長が安土城を築き、その城下に浄厳院を移転させたことに伴い、同八年当寺も浄厳院の隣接地に移転した。しかし、同一〇年に信長が本能寺の変で討たれると当寺はもとの永原村に戻り、同一三年に再建された。江戸時代には歴代の徳川将軍から高五石の寺領安堵の朱印状が下付され、さらに浄厳院の筆頭格の末寺として阿弥陀寺と並んで数百箇寺の衆長として寺格を誇った。また本尊阿弥陀如来立像は国の重要文化財に指定されており、境内地に建つ五重の石塔は国の重要美術品。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二四(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、『滋賀県市町村沿革史』二(弘文堂書店、一九八八)、『近江輿地志略』六九(弘文堂書店、一九七六)、『野洲郡志』下(寺田精文堂、一九七三)


【参考】『明鏡山寺格年略記』(作者不明、一八一〇)、南尊融「本末制度確立過程における寺伝の改竄—所謂〈阿弥陀寺本末圏〉諸寺院の場合—」(『仏教学会紀要』一二、二〇〇四)


【参照項目】➡阿弥陀寺浄厳院


【執筆者:井野周隆】


山口県萩市下五間町。長栄山不断光院。もとは萩津山常念寺と号した。山口教区№九二。元知恩院直末。天文元年(一五三二)、信誉酉阿の開山。安部家貞を開基として創建され、その法名である「常念」をとって寺号とした。江戸時代には知恩院の命によって周防・長門二国の触頭ふれがしら寺院となったが、土地の往来が不便であったため、長門一国のみにとどまった。寛文九年(一六六九)の火災によって堂宇を焼失したが、毛利家の支援によって延宝元~二年(一六七三—一六七四)に現在地に再建され、明治初年に末寺称名院を合併して現在に至る。境内にある常念寺表門は、もと京都聚楽第にあった裏門を寛永一〇年(一六三三)に移築したものと伝えられ、国重要文化財に指定されている。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三三、『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)


【執筆者:杉山裕俊】