操作

山下現有

提供: 新纂浄土宗大辞典

2018年3月30日 (金) 06:35時点におけるSeishimaru (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

やましたげんゆう/山下現有

天保三年(一八三二)一〇月一九日—昭和九年(一九三四)四月一一日。謙蓮社孝誉真善妙阿。あざなは葵堂。知恩院七九世。宗門功労者で、近代の代表的な高僧。現在の愛知県一宮市大赤見に山口安蔵の長男として生まれ、天保一一年(一八四〇)樹敬寺(三重県松阪市)の梧雲のもとで出家得度し、俊敬と命名される。弘化元年(一八四四)増上寺山下谷安祥室賢従の寮に入り、修学。嘉永二年(一八四九)増上寺において宗戒両脈相承する。賢従の栄転により館林善導寺・京都清浄華院に随従するも、学問不足を理由に辞した後、増上寺の学席に復し、最勝院名阿について研鑽する。同七年安祥室寮主に選任され、また居住地である山下谷にちなんで山下を姓とし、名を現有と改める。廃仏毀釈の影響により増上寺の学制が退廃する中、学徒の指導育成につとめた。さらに当時の山口藩制は領民が領外に出ることを禁じていたため、学徒の檀林就学が阻まれていた。事態を憂慮した増上寺明賢の命により、明治三年(一八七〇)養鸕うがい徹定てつじょうとともに山口県善生寺に山口講学場浄土宗学校)を設立、関東檀林の制度に則して講義や加行伝宗伝戒を行った。同七年東京幡随院住職となるが、一年足らずで安祥室に戻る。同一二年円成寺(愛知県津島市)住職、続いて同二〇年百万遍知恩寺法主に就任するも、同二三年京都転法輪寺に隠棲し、念仏三昧の生活に入る。同二六年大日比西円寺(山口県長門市)住職を兼ねる。同三〇年増上寺法主に任じられ、山規の改定・御忌会の再興・東京婦人会創立・授戒五重の毎年開筵などの大業をなす。同三五年浄土宗管長知恩院門跡となり、「明照大師諡号しごうの勅額拝戴や宗祖七〇〇年遠忌などの重大法要を奉修する。また阿弥陀堂再建をはじめとした多くの事業を達成し、昭和三年(一九二八)昭和天皇即位の大礼の際に、布教・教育・社会教化の功績者として金杯を受ける。一宗にとどまらず、仏教界の長老として敬われ、「生き仏」の尊称を受けた。著書に『安心決定集』(一八九三)、『攖寧邨えいねいそん舎詩』(一九三〇)がある。


【参考】井川定慶『高僧山下現有上人』(政教書院、一九三四)、深貝慈孝編『孝誉大僧正の追憶』(転法輪寺、一九八三)


【執筆者:伊藤瑛梨】