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専修・雑修

提供: 新纂浄土宗大辞典

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せんじゅ・ざっしゅ/専修・雑修

極楽浄土往生するための行として、専ら一行を修める専修と、多種の行法(諸行)を修める雑修とがあり、善導往生礼讃』の前序に「もし専を捨てて雑業を修せんと欲する者は、百の時まれに一二を得、千の時まれに三五を得る」(浄全四・三五六下正蔵四七・四三九中)や「余、このごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行同じからず専雑異りあり。もしこころを専らにしてす者は、十は即ち十生じ、雑を修めて至心ならざる者は、千が中に一もなし。この二行の得失は前にすでに弁ずるがごとし」(浄全四・三五七上正蔵四七・四三九中~下)と説かれている。すなわち、念仏の一行を専ら修める者は十人は十人ながら往生できるが、諸行をまじえて行ずる者は千人に一人として往生し得ないという。それは専修に四得があり、雑修に十三失があるからである。専修の四得とは「外の雑縁なく正念を得るが故に。仏の本願と相応することを得るが故に。教えに違せざるが故に。仏語に随順するが故に」(浄全四・三五六下正蔵四七・四三九中)として示され、雑修の十三失とは「雑縁乱動し正念を失するに由るが故に。仏の本願と相応せざるが故に。教えと相違するが故に。仏語に順ぜざるが故に。係念相続せざるが故に。憶想間断するが故に。回願慇重真実ならざるが故に。貪・瞋・諸見の煩悩来たりて間断するが故に。慚愧懺悔の心有ること無きが故なり。…また相続してかの仏の恩を念報せざるが故に。心に軽慢を生じて業行をなすといえども常に名利と相応するが故に。人我みずから覆いて同行善知識に親近せざるが故に。ねがいて雑縁に近づきて往生正行を自障し障他するが故なり」(浄全四・三五七上正蔵四七・四三九中)と述べられている。この善導解釈をうけた懐感は『群疑論』四において、「みな懈慢にして執心牢固ならざるによる。是に知りぬ。雑修の者は執心不牢の人なるが故に懈慢国に生まる。正しく処胎経の文と相い当たれり。もし雑修せずして専ら此の業を行ずれば、即ち執心牢固にして定んで極楽国に生まる」(浄全六・四九下正蔵四七・五〇下)と述べているように、専修とは執心牢固に念仏一行を専らにして極楽往生することであり、雑修とは執心不牢固のままに諸行をまじえて修めることで懈慢国に往生する行法とする。

法然は『選択集』二において善導の『往生礼讃』の文を引用した上で「私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生専修正行を捨てて、堅く千中無一雑修雑行を執せんや。行者能くこれを思量せよ」(聖典三・一一三/昭法全三一七)と述べ、また『浄土宗略抄』でも「正行を行ずる者をば専修行者といい、雑行を行ずるをば雑修行者と申すなり」(聖典四・三六四/昭法全六〇一~二)と述べて、専修正行(正助二行)とみなしているが、『大胡の太郎実秀が妻室のもとへつかわす御返事』に「往生の行多しといえども大きに分かちて二つとしたまえり。一つには専修、いわゆる念仏なり。二つには雑修、いわゆる一切の諸の行なり」(聖典四・四一三/昭法全五一二)、『念仏大意』では「しかればかえすがえすも一向専修念仏に信を致して他の心なく、日夜朝暮行住坐臥に怠る事なく称念すべきなり。専修念仏を致す輩当世にも往生を遂ぐる聞こえその数多し。雑修の人においてはその聞こえ極めて有り難し」(聖典四・三五〇~一/昭法全四一四)、さらに『津戸の三郎へつかわす御返事』にも「唐の世に善導和尚と申しそうらいし人、往生行業において専修雑修と申す二つの行を分かちて勧めたまえる事なり。専修というは念仏なり。雑修というは念仏の外の行なり」(聖典四・五一五/昭法全五六八)として、称名念仏のみを専修とする理解も同時に示している。これをうけて三祖良忠は『東宗要』五において、「第十八、問う専雑二修と正雑二行とは同とやせん、異とやせん」(浄全一一・九八下)と問い、専修正行雑修雑行であるとしている。また『決疑鈔』二でも「正雑二行はすなわち専雑二修なり」(浄全七・二一四下)と述べている。

証空は『観経疏他筆抄散善義上に「正雑二行は行体に名づけ、専雑二修は心相に名づけたり。すなわち起行作業の差別なり。また二修とは二行の得失なり。いまの釈に、前の正助二業を修すれば心常に親近して憶念断ぜざれば名づけて無間とす。無間とは正行の得なり。また後の雑行を行ずれば心常に間断すと云うは雑修の失なり」(西全五・三一六上)と述べ、さらに「正行を修すれば憶念不断にして無間修を成ず。雑行を修すれば心常に間断して専修を成ぜずと見えたり。しかるに文の首尾を明らむるに、正雑二行は二修によりてその名を立て、専雑二修は二行の得失なり」(西全五・三二三上)とあるように、正雑二行とは往生行起行)そのものであり、専雑二修とはその二行によってもたらされる心相としての得失であるという。具体的には、専修とは正行を修めることによって得られる四修作業)の中の無間修であり、雑修とは雑行によって心が阿弥陀仏と間断する失とする。また『往生礼讃自筆御鈔』に「難行道の心を指して雑修と名付け、易行道を指して専修と云うなり…専修は直ちに身口に弥陀の一行を修するのみを指さず、心を専らにするなりと云うなり」(西叢三・三七上)とも述べている。

親鸞は『教行信証』六化身土巻に「また雑行につきて専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とは専ら一善を修すが故に専行という。専心とは回向を専らにするが故に専心という。雑行・雑心とは、諸善兼行するが故に雑行といい、定散の心雑わるが故に雑心というなり。また正・助につきて専修あり雑修あり。この雑修につきて専心あり雑心あり。専修につきて二種あり。一には唯だ仏名を称し、二には五専あり。此の行業につきて専心あり雑心あり。五専とは、一に専礼、二に専読、三に専観、四に専称、五に専讃嘆、これを五専修と名づく。専修、その言は一にしてその意はこれ異なり。即ちこれ定専修、また散専修なり。専心とは五正行を専らにして二心なきが故に専心という。即ちこれ定専心、またこれ散専心なり。雑修とは助正兼行するが故に雑修という。雑心とは定散の心雑なるが故に雑心というなり。知るべし」(真宗聖典四九八~九/真聖全二・一五五~六)と述べている。これによると、専修雑修は、正助二行(五種正行)について分類したものであり、専修とは他力念仏の「唯称仏名」と要門の「五専」(五種正行の一々を専らに修めること)であり、前者を定専修といい、後者を散専修であるとする。また雑修とは助正兼行することであり、これらを専ら回向する専心と、定散の心がまじわる雑心にわけて解釈している。


【参考】坪井俊映「法然浄土教における一向専修の形成について—往生要集釈と無量寿経釈を中心として」(『東洋文化論集』、一九六九)、廣川堯敏「法然門下における専修念仏義の展開」(『浄土教文化論』山喜房仏書林、一九九一)、那須一雄「法然とその門下における〈専修・雑修〉理解—特に隆寛・証空・静遍について」(『真宗研究』五二、二〇〇八)


【参照項目】➡正行・雑行


【執筆者:齊藤隆信】