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以八

提供: 新纂浄土宗大辞典

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いはち/以八

天文元年(一五三二)—慶長一九年(一六一四)九月一四日。行蓮社信誉。いみなは存易、別に専求西ともいう。陸奥国岩城の人。捨世派念仏聖の系譜に属す。一一歳で能満寺存洞につき得度名越派大沢円通寺で学んだ後、白旗派生実おゆみ大巌寺開山道誉貞把の下で宗戒両脈相承し研鑽を重ねる。遁世の志深く、二八歳のとき師の下を辞し、諸国遊行の身となって念仏弘通す。遍歴の過程で一寺僧の浅ましき姿を感見し、「学侶にまじはれば名聞の縄の為に縛せられ、檀越にちかづけば利養のやいばの為に害せらる、はなはだ怖畏ふいすべし」(『光明院開基以八上人行状記浄全一七・七六九上)と、いよいよ隠遁遊行に専心した。近畿から中国地方を巡歴し、筑後善導寺を経て安芸国厳島いつくしま(広島県廿日市はつかいち市)に入ると、神社の東の岡に草庵を結び光明院の基を開く。その後およそ三〇年に及ぶ当地での民衆教化は現在の広島・山口両県を中心に、この地方における専修念仏の興隆に寄与するところ大であった。美作みまさか誕生寺の再興にも尽力。良定袋中は同母弟である。


【資料】『光明院開基以八上人行状記』(浄全一七)


【執筆者:長谷川匡俊】