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事理

提供: 新纂浄土宗大辞典

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じり/事理

事と理。理事ともいう。事は森羅万象の事相、諸法。理は唯一平等法性真如。『起信論』に、「この心の真如相は、即ち摩訶衍まかえんの体を示すが故なり。この心の生滅の因縁の相は、能く摩訶衍の自の体と相と用を示すが故なり」(正蔵三二・五七五下)と説き、衆生の心には、真実のあり方(心真如門・理)と迷妄のあり方(心生滅門・事)の二面性が現れているとしたのは、後世に大きな影響を与えた。華厳宗では、杜順『華厳五教止観』に、「心真如門とはこれ理、心生滅とはこれ事。即ち空有の二見、自在円融にして、隠顕不同なるも、竟に障礙無きとう」(正蔵四五・五一一中)と、「理事無礙」説を提起した。天台宗では、智顗法華文句』に、「理はこれ真如真如は本より浄し。有仏無仏常に変易せず、故に理を名づけて実と為す。事はこれ心意識等なり、浄・不浄の業を起こして改動して定らず、故に事を名づけて権と為す」(正蔵三四・三七下)と、権実本迹ほんじゃくの二門を以て理と事とを説明したため、後の天台教学における事教・理教、事観・理観、事懺・理懺などの概念が確立された。湛然止観義例』は、『占察経』の説を依用し、「実相は理を観じ、唯識は事を歴たる。事・理不二にして、観道や開く」(正蔵四六・四五二上)と、「相即」に基づき、事観理観を樹立し、天台浄土教学の「観心観仏」問題に理論的な根拠を提示した。知礼『妙宗鈔』に、「今此の観法は但だ仏を観ずるのみに非ず、乃ち心に拠りて観じ、下に就きて高きを顕せば、仏観を修すと雖も、名づけて難しと為さず。ここに知る、今経の心観を宗と為すは、意は仏を見るに在り」(正蔵三七・一九七下)というのも、事理の両面から観法を展開すべしとする湛然の意の継承であり、さらに「即心念仏」へも発展させることができた。江戸時代の光謙は、知礼説を受け、『即心念仏安心決定談義本』の「即心念仏起りの事」に、「持名念仏に就ても、理持の念仏、事持の念仏、其品分れたり。善導法然の勧めは一向の事の念仏なり。吾天台宗の貴む所は、即心念仏なり。亦約心観仏とも云、亦理持とも云なり」(続浄一四・二下)と記し、天台宗では善導が提唱した称名念仏のみならず、常に事理双修の念仏が行われていたという。


【参考】安藤俊雄『天台学論集—止観と浄土』(平楽寺書店、一九七五)、福島光哉『宋代天台浄土教の研究』(文栄堂、一九九五)、池田魯参『大乗起信論』(大蔵出版、一九九八)


【参照項目】➡即心念仏


【執筆者:林鳴宇】