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了学

提供: 新纂浄土宗大辞典

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りょうがく/了学

天文一八年(一五四九)—寛永一一年(一六三四)二月一三日。団蓮社照誉遊嶽。増上寺一七世。生地は武蔵国糀村(東京都千代田区麴町)。下総国小金城主高木修理亮の三男。一三歳で小金東漸寺紫雲のもとで剃髪。のち生実おゆみ大巌寺随流に師事。東漸寺七世に就任後、上総国大多喜に良信寺を開創。のち飯沼教化し、兵火で焼失した弘経寺を再興し、同寺一〇世となる。徳川家康・秀忠の戒師を勤めたが、寛永四年(一六二七)佐倉清光寺に閑居し、同地に松林寺を開創。同九年正月一七日秀忠の命により増上寺一七世に就任。秀忠葬儀の導師を勤めた。また台徳院領・崇源院領の管理、台徳院御霊屋おたまや・安国殿落慶など山内を整備した。在住二ヶ年八六歳で遷化したが、了聞ら多くの弟子を輩出、宗門の興隆に果たした功績は大きい。


【資料】『三縁山志』(浄全一九)、『新撰往生伝』(浄全一七)


【参考】『大本山増上寺史』本文編(大本山増上寺、一九九九)


【執筆者:中野真理子】