操作

隆寛

提供: 新纂浄土宗大辞典

りゅうかん/隆寛

久安四年(一一四八)—安貞元年(一二二七)一二月一三日。法然没後の浄土宗の有力者で、長楽寺流の祖。劉官りゅうかんとも書く。皆空・無我伽陀婆羅摩とも称した。従四位下少納言藤原資隆すけたかの子。延暦寺出家横川よかわ戒心谷知見房に住む。伯父の椙生流すぎうりゅう皇円に天台顕教を学び、皇円没後は同流の範源に師事。また青蓮院門主慈円との和歌を通した交流が『拾玉集』からうかがえる。椙生流で顕教を専門に学び、建久四(一一九三)・五・六年に最勝講、同五年には法勝寺御八講にいずれも聴衆として出仕した。これらは朝廷主催の論義仏事で四箇大寺の学僧が公請で出仕する。このような格の高い論義への参加経験は、浄土宗継承者では隆寛以外にいない。ただし慈円が天台座主を辞した建久七年の政変を境に出仕がなくなる。これ以後、慈円のもとで青蓮院の仏事を勤めながら浄土教信仰を深める。法然との交流はこの頃はじまるとみられ、元久元年(一二〇四)小松殿で『選択集』を貸与され書写している。建仁元年(一二〇一)までに已講(准已講)となり、元久二年(一二〇五)慈円大熾盛光法だいしじょうこうほう勧賞けんじょうで権律師へ昇進。元久の法難建永の法難には関わらなかった。承元二年(一二〇八)大懺法供養に参仕して以後、慈円との関係は希薄になり浄土宗の事績が増える。法然没後に著した『具三心義』『極楽浄土宗義』では、善導法然を継受しながら他力論や信心の新たな展開を示す。真実心が阿弥陀仏の側にあるという考えや曇鸞重視は注目され、親鸞に思想的影響を与えたことも見逃せない。嘉禄三年(一二二七)に起こった嘉禄の法難は、天台僧定照が『選択集』を批判した『弾選択』を撰述し、隆寛が『顕選択』で反論したことに端を発する。この頃には『選択集』を擁護するほど浄土宗に深く傾倒していた。延暦寺専修念仏の張本の処罰を朝廷に要求、隆寛(陸奥)・幸西(壱岐)・空阿(薩摩)三名の配流が決まる。森入道西阿(毛利季光すえみつ)に護送され鎌倉を経て彼の所領相模国飯山(神奈川県厚木市)へ至り、その地で八〇歳にて没した。陸奥へは代官として実成房を遣わしたという。東山長楽寺を拠点としたので一門は長楽寺流と呼ばれ、また多念義とも言われる。『法水分流記』から門流が一時栄えたことがわかり、そのうち信瑞は『明義進行集』『広疑瑞決集』の作者として知られ、智慶は鎌倉に新長楽寺を創建し関東に浄土宗をひろめた。隆寛の子息、聖増・慈胤は青蓮院に帰属する台密僧として活躍した。


【参考】安井広度『法然門下の教学』(法蔵館、一九六八)、平井正戒『隆寛律師の浄土教附遺文集』(金沢文庫浄土宗典研究会、一九四一)、松野純孝「隆寛の立場」(浄土学二八、一九六一)、村松清道「隆寛律師の出自と俗縁」(『仏教文化研究』三六、一九九一)、善裕昭「隆寛の思想形成」(印仏研究四八—二、二〇〇〇)


【参照項目】➡長楽寺流


【執筆者:善裕昭】