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阿弥陀来迎図

提供: 新纂浄土宗大辞典

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あみだらいこうず/阿弥陀来迎図

阿弥陀仏が、極楽への往生を願う人の臨終に際して、その人のもとへと来迎するさまを描いた図。迎接曼陀羅こうしょうまんだらともよばれる。特に観音菩薩勢至菩薩を伴って来迎するものを阿弥陀三尊来迎図二十五菩薩を伴って来迎するものを阿弥陀二十五菩薩来迎図、多くの聖衆菩薩衆)を伴って来迎するものを阿弥陀聖衆来迎図とよぶ。『無量寿経』の第十九願や三輩往生段、あるいは『阿弥陀経』には、臨終に際しての阿弥陀仏現前を説くが、それらをより詳細かつ具体的に来迎として説示したのが『観経』の九品往生段である。来迎の経説の絵画化は、まず、唐代に種々考案された観経変相図において行われた。日本で最も知られた観経変相図である当麻曼陀羅は、原本では欠損している下縁部に、九品来迎図が描かれていたことが、同じく當麻寺に伝わる室町時代の写本である文亀曼陀羅(国重要文化財)等から知られる。この当麻曼陀羅九品来迎図が、日本における阿弥陀来迎図の先駆である。その後、平安前期には、比叡山の常行三昧堂に九品浄土図が描かれていたという記録が残っているが、その図様がいかなるものであったかは明らかではない。平安時代中期になると源信が登場し、浄土信仰は大きな展開を見せる。源信は『往生要集』を著して、浄土を欣求する者の受ける第一の楽として「聖衆来迎楽」を挙げ、来迎を演劇的手法で表現する迎講むかえこうを創始し、あるいは自ら弥陀来迎影像ようぞうを図絵したという。迎講の有様は、その後の来迎図の図様に少なからぬ影響を与えたと考えられている。源信の死後まもなく、藤原道長は、寛仁四年(一〇二〇)に建立した無量寿院に九体の阿弥陀仏を安置し、その扉に九品蓮台の図を描かせた。今日その姿を見ることはできないが、その後、天喜元年(一〇五三)建立の平等院鳳凰堂に描かれた九品来迎図(国宝)は、今日、日本で目にすることのできる最も古い来迎図である。本尊阿弥陀仏を取り囲む板壁や扉に描かれたこの作品は、来迎図を大和絵山水画と絶妙に融合させた傑作として知られる。この作品において、軽やかに緩やかにこの世へと下降し、あるいは極楽へと上昇していく聖衆の姿は、四季の情緒溢れる広大な山水の中に点景的に描かれる。それは、日本古来の死生観に根ざした極めて日本的な来迎の姿である。平安期の来迎図平等院九品来迎図と並んで最も注目すべき作品は、高野山有志八幡講十八箇院所蔵の阿弥陀聖衆来迎図三幅(国宝)である。この作品はもともと比叡山安楽谷に伝来したもので、三幅合わせると、縦二メートル、横四メートルを超える大画面であり、その中央に正面を向いて結跏趺坐けっかふざする阿弥陀仏とそれを取り囲む多くの聖衆が緩やかに漂うように来迎する場面を描く。巨幅全体に広がった聖衆は、点景的な平等院九品来迎図に比してすこぶる存在感に溢れ、見る者の目前に出現した仏たちの圧倒的な迫力を伝えている。

これら平安時代の来迎図のもつ優雅でゆったりとした表現に対し、鎌倉時代になるとより迅速でダイナミックな表現が現れ、諸尊の姿も座像形式に比して立像形式が主流となっていく。鎌倉時代前期の奈良興福院こんぶいん阿弥陀聖衆来迎図(国重要文化財)は、平安時代の来迎図の優雅さを保持し、座像形式をとりつつも、飛雲の動きは素早く、諸尊の乗る蓮華座の花弁も後方へたなびいて速度感を強調している。迅速な来迎を表した代表的作品が、「早来迎はやらいこう」とよばれる知恩院蔵の阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝、鎌倉時代)である。この作品は、上品上生来迎を描いたもので、桜の咲き乱れる険しい山水の中を画面左上から右下の往生人を目指し、対角線に沿って急降下する立像形式の仏・菩薩を描く。このほか、鎌倉時代以降には、山越阿弥陀図とよばれる様式の作品が知られる。これは、阿弥陀仏の姿を、山から満月が出る様、あるいは落日の様に見立てて描いたもので、禅林寺本(国宝、鎌倉時代)や金戒光明寺本(国重要文化財、鎌倉時代)などが知られる。


【参考】大串純夫『来迎芸術』(法蔵館、一九八三)、浜田隆『来迎図』(『日本の美術』二七三、至文堂、一九八九)、中村興二「貴族社会の浄土信仰」(『図説日本の仏教三 浄土教』新潮社、一九八九)、内田啓一監修『浄土の美術』(東京美術、二〇〇九)【図版】巻末付録


【参照項目】➡帰来迎九品来迎図阿弥陀聖衆来迎図阿弥陀二十五菩薩来迎図早来迎阿弥陀三尊来迎図山越阿弥陀図迎講


【執筆者:若麻績敏隆】