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認識

提供: 新纂浄土宗大辞典

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にんしき/認識

主観が客観についてもつ知識のことで、外的知覚から内観に至るまで広い意味で用いられる。まずインド哲学一般においては、認識とは四つの要因から成り立つ。つまり認識手段(Ⓢpramāṇaプラマーナ)、認識対象(Ⓢprameyaプラメーヤ)、認識主体(Ⓢpramātṛプラマートリ)、認識結果としての知識(Ⓢpramitiプラミティ)である。インドの認識論においては、正しい認識手段によって対象を理解し、把握することが重要なのである。非仏教徒であるインド哲学の諸学派においては、認識の主体はアートマンであるといえる。アートマンを否定する立場にある仏教認識論は、六根・六境・六識十八界の理論の成立に至る。このような立場が経量部や唯識派を中心に一層発展を遂げた。インドにおいては古来、種々の認識論が主張されてきたが、総じて、無形象知識論と有形象知識論の二つにまとめられる。無形象知識論においては形象はもともと認識対象の側にあり、直接にそれが捉えられるというもので、これは仏教でいうと説一切有部の立場である。有形象知識論においては、認識は形象の顕現を捉えているということになり、経量部や有相唯識派の立場である。浄土教においては観仏・見仏の問題と関係する。また仏教における認識の問題として重要であるのは、ディグナーガ(ⓈDignāga陳那)、ダルマキールティ(ⓈDharmakīrti法称)の学系である。ディグナーガは当時興隆していたインド哲学の諸学派(サーンキヤ、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカ等)の学派がたてる思想体系に対して仏教認識論・論理学を確立した。彼において特筆すべきは自己認識の理論や、認識・推理に共通する他者の排除(Ⓢapoha)の理論であろう。またディグナーガをはじめとする仏教認識論では、正しい認識手段として知覚Ⓢpratyakṣaと推理Ⓢanumāṇaのみしか認めない。ダルマキールティも仏教認識論に多くの功績を残した人物である。ディグナーガの体系を受け継ぐと同時に推理論においては、三種の正しい証因(同一性Ⓢsvabhāva・因果性Ⓢkārya・非認識Ⓢanupalabdhi)の理論を展開した。


【参考】『講座・仏教思想』九(春秋社、一九八四)


【参照項目】➡アートマン十八界因明


【執筆者:薊法明】