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「見仏」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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肉眼または心眼などによって、覚時または睡時にも仏のすがたを見る[[宗教体験]]。広義には、仏だけではなくその[[浄土]]を見る(見土)ことも含む。経典では『[[般舟三昧経]]』上に「まさに彼の方の仏を念じて戒を欠くを得ざれ。[[一心]]に念じ、もしくは一昼夜、もしくは七日七夜、七日を過ぎて以後、[[阿弥陀仏]]を見る。覚において見ず、夢中に之を見る」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V13.0905a.html 正蔵一三・九〇五上])、また「[[菩薩]]はこの間の[[国土]]において[[阿弥陀仏]]を聞き、<ruby>数数<rt>さくさく</rt></ruby>念ず。この念を用ての故に[[阿弥陀仏]]を見る」(同・九〇五中)とあるように、この[[娑婆]][[世界]]で[[念仏]]を修めることによって[[見仏]]の[[果報]]が得られると説いている。<ruby>[[廬山]][[慧遠]]<rt>ろざんえおん</rt></ruby>は同士とともに[[白蓮社]]を興し、本経所説の行法によって[[見仏]]を期したといわれている。また『[[観経]]』では「この語を説きたまう時、[[無量寿仏]]、空中に住立したまう。…時に[[韋提希]]、[[無量寿仏]]を見たてまつりおわって、足を接して礼を作し、仏にもうしてもうさく。[[世尊]]。我れ今[[仏力]]に因るが故に、[[無量寿仏]]および二[[菩薩]]を見たてまつることを得たり。[[未来の衆生]]、まさに<ruby>云何<rt>いかん</rt></ruby>が[[無量寿仏]]および二[[菩薩]]を観たてまつるべきや」(聖典一・二九七/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0042 浄全一・四二])とあり、[[韋提希]]は[[釈尊]]の力によって[[阿弥陀仏]]と二[[菩薩]]を見ることができたが、[[仏滅]]後の[[衆生]]はいかにして観ずることができるのかと問うている。この文中に「見」と「観」がともに出ているが、この両者は区別しなければならない。すなわち[[見仏]]とはすでに仏を見たことであり、観仏は[[見仏]]しようとして行を修めることである([[見仏]]は結果、観仏は過程)。[[韋提希]]は[[仏力]]によって結果としてすでに[[阿弥陀仏]]と二[[菩薩]]を見ることができたので、[[未来の衆生]]を憐れんでその[[見仏]]する行法としての観仏を[[釈尊]]に問うたのである。また[[九品]]では[[行者]]の臨終に仏[[菩薩]]の[[来迎]]と[[見仏]]が説かれている。これをうけて[[善導]]は『[[観念法門]]』[[五種増上縁義]]の中に第三[[見仏三昧]][[増上縁]]を説いて、[[往生行]]を修める者が蒙る[[利益]]としての[[見仏]]を示している。なお、[[法然]]の説く[[口称]]の[[念仏]]は、[[見仏]]の[[果報]]を目的として行われるのではない。しかしこれを否定するものでもなく、不求自得として理解される。その臨終にはしばしば[[見仏]]の体験を得ており、『[[御臨終日記]]』には「この十余年、[[極楽]]の[[荘厳]][[化仏]][[菩薩]]を拝し奉つる事これ常なり」(昭法全八六八)とある。また[[良忠]]は[[聖光]]からの伝聞として、[[法然]]の「最後の時は[[見仏]]の想を成すべきなり。その故は[[見仏]]は前なり。[[往生]]は後なり。前の[[来迎]][[見仏]]を隔越して[[往生]]すとを思はば、便宜しかるべからざるなり」(昭法全七六五)という述懐を伝えている。
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肉眼または心眼などによって、覚時または睡時にも仏のすがたを見る[[宗教体験]]。広義には、仏だけではなくその[[浄土]]を見る(見土)ことも含む。経典では『[[般舟三昧経]]』上に「まさに彼の方の仏を念じて戒を欠くを得ざれ。[[一心]]に念じ、もしくは一昼夜、もしくは七日七夜、七日を過ぎて以後、[[阿弥陀仏]]を見る。覚において見ず、夢中に之を見る」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V13.0905a.html 正蔵一三・九〇五上])、また「[[菩薩]]はこの間の[[国土]]において[[阿弥陀仏]]を聞き、<ruby>数数<rt>さくさく</rt></ruby>念ず。この念を用ての故に[[阿弥陀仏]]を見る」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V13.0905b.html 同・九〇五中])とあるように、この[[娑婆]][[世界]]で[[念仏]]を修めることによって[[見仏]]の[[果報]]が得られると説いている。<ruby>[[廬山]][[慧遠]]<rt>ろざんえおん</rt></ruby>は同士とともに[[白蓮社]]を興し、本経所説の行法によって[[見仏]]を期したといわれている。また『[[観経]]』では「この語を説きたまう時、[[無量寿仏]]、空中に住立したまう。…時に[[韋提希]]、[[無量寿仏]]を見たてまつりおわって、足を接して礼を作し、仏にもうしてもうさく。[[世尊]]。我れ今[[仏力]]に因るが故に、[[無量寿仏]]および二[[菩薩]]を見たてまつることを得たり。[[未来の衆生]]、まさに<ruby>云何<rt>いかん</rt></ruby>が[[無量寿仏]]および二[[菩薩]]を観たてまつるべきや」(聖典一・二九七/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0042 浄全一・四二])とあり、[[韋提希]]は[[釈尊]]の力によって[[阿弥陀仏]]と二[[菩薩]]を見ることができたが、[[仏滅]]後の[[衆生]]はいかにして観ずることができるのかと問うている。この文中に「見」と「観」がともに出ているが、この両者は区別しなければならない。すなわち[[見仏]]とはすでに仏を見たことであり、観仏は[[見仏]]しようとして行を修めることである([[見仏]]は結果、観仏は過程)。[[韋提希]]は[[仏力]]によって結果としてすでに[[阿弥陀仏]]と二[[菩薩]]を見ることができたので、[[未来の衆生]]を憐れんでその[[見仏]]する行法としての観仏を[[釈尊]]に問うたのである。また[[九品]]では[[行者]]の臨終に仏[[菩薩]]の[[来迎]]と[[見仏]]が説かれている。これをうけて[[善導]]は『[[観念法門]]』[[五種増上縁義]]の中に第三[[見仏三昧]][[増上縁]]を説いて、[[往生行]]を修める者が蒙る[[利益]]としての[[見仏]]を示している。なお、[[法然]]の説く[[口称]]の[[念仏]]は、[[見仏]]の[[果報]]を目的として行われるのではない。しかしこれを否定するものでもなく、不求自得として理解される。その臨終にはしばしば[[見仏]]の体験を得ており、『[[御臨終日記]]』には「この十余年、[[極楽]]の[[荘厳]][[化仏]][[菩薩]]を拝し奉つる事これ常なり」(昭法全八六八)とある。また[[良忠]]は[[聖光]]からの伝聞として、[[法然]]の「最後の時は[[見仏]]の想を成すべきなり。その故は[[見仏]]は前なり。[[往生]]は後なり。前の[[来迎]][[見仏]]を隔越して[[往生]]すとを思はば、便宜しかるべからざるなり」(昭法全七六五)という述懐を伝えている。
 
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【参照項目】➡[[見仏三昧]]
 
【参照項目】➡[[見仏三昧]]

2018年9月17日 (月) 01:17時点における最新版

けんぶつ/見仏

肉眼または心眼などによって、覚時または睡時にも仏のすがたを見る宗教体験。広義には、仏だけではなくその浄土を見る(見土)ことも含む。経典では『般舟三昧経』上に「まさに彼の方の仏を念じて戒を欠くを得ざれ。一心に念じ、もしくは一昼夜、もしくは七日七夜、七日を過ぎて以後、阿弥陀仏を見る。覚において見ず、夢中に之を見る」(正蔵一三・九〇五上)、また「菩薩はこの間の国土において阿弥陀仏を聞き、数数さくさく念ず。この念を用ての故に阿弥陀仏を見る」(同・九〇五中)とあるように、この娑婆世界念仏を修めることによって見仏果報が得られると説いている。廬山慧遠ろざんえおんは同士とともに白蓮社を興し、本経所説の行法によって見仏を期したといわれている。また『観経』では「この語を説きたまう時、無量寿仏、空中に住立したまう。…時に韋提希無量寿仏を見たてまつりおわって、足を接して礼を作し、仏にもうしてもうさく。世尊。我れ今仏力に因るが故に、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり。未来の衆生、まさに云何いかん無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべきや」(聖典一・二九七/浄全一・四二)とあり、韋提希釈尊の力によって阿弥陀仏と二菩薩を見ることができたが、仏滅後の衆生はいかにして観ずることができるのかと問うている。この文中に「見」と「観」がともに出ているが、この両者は区別しなければならない。すなわち見仏とはすでに仏を見たことであり、観仏は見仏しようとして行を修めることである(見仏は結果、観仏は過程)。韋提希仏力によって結果としてすでに阿弥陀仏と二菩薩を見ることができたので、未来の衆生を憐れんでその見仏する行法としての観仏を釈尊に問うたのである。また九品では行者の臨終に仏菩薩来迎見仏が説かれている。これをうけて善導は『観念法門五種増上縁義の中に第三見仏三昧増上縁を説いて、往生行を修める者が蒙る利益としての見仏を示している。なお、法然の説く口称念仏は、見仏果報を目的として行われるのではない。しかしこれを否定するものでもなく、不求自得として理解される。その臨終にはしばしば見仏の体験を得ており、『御臨終日記』には「この十余年、極楽荘厳化仏菩薩を拝し奉つる事これ常なり」(昭法全八六八)とある。また良忠聖光からの伝聞として、法然の「最後の時は見仏の想を成すべきなり。その故は見仏は前なり。往生は後なり。前の来迎見仏を隔越して往生すとを思はば、便宜しかるべからざるなり」(昭法全七六五)という述懐を伝えている。


【参照項目】➡見仏三昧


【執筆者:齊藤隆信】


—仁治三年(一二四二)。法然直面の弟子。大和前司親盛入道、大和守、大和入道、左衛門尉ともいう。藤原冬嗣一三代の孫。建久三年(一一九二)後白河法皇臨終の後、菩提のために心阿弥陀仏住蓮安楽等と六時礼讃を修す。これを六時礼讃共行ぐぎょうの始まりとする。元久元年(一二〇四)『七箇条制誡』では一一月七日に第八番目に署名する。法然見仏に自分の死後、浄土の疑問は聖覚法印に尋ねることを勧めた。この他にも『尊卑分脈』『玉葉』『明月記』『平戸記』『聖覚法印表白』『翼賛』にその名が見える。


【資料】『四十八巻伝』一〇(聖典六)、良忠『疑問抄』上(聖典五)


【参考】法然上人伝研究会編『法然上人伝の成立史的研究』二〈対照篇〉(臨川書店、一九九一)、中野正明『増補改訂法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二〇一〇)


【執筆者:南宏信】