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蔵俊

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ぞうしゅん/蔵俊

長治元年(一一〇四)—治承四年(一一八〇)九月二七日。菩提院上綱、菩提院僧正、八舌僧正と呼ばれ、教明房と号す。大和国高市郡池尻村(奈良県橿原市東池尻町)出身、俗姓は巨勢こせ氏。『興福寺別当次第』には、興福寺別当覚晴に師事するかたわら良慶、定清、長有について唯識法相を学んだとあるが、『台記』では、蔵俊の師は教高と伝える。実範じっぱん戒律を受け、宗義因明(印度の論理学)に通じ、後白河院の院宣によって『注進法相章疏』を作った。久寿二年(一一五五)維摩会の竪義りゅうぎ、仁安二年(一一六七)講師、安元二年(一一七六)律師ごんりっし、治承元年(一一七七)元興寺別当、同二年権少僧都、同三年興福寺権別当となった。『四十八巻伝』四には、清凉寺で七日間の参籠を終えた法然が、奈良に下向して初めて会った人物で、法然の学識の高さに舌を巻き、生涯毎年供養を送ったとある。一方で、南都北嶺との確執が絶えない時期の訪問や法然の年齢、『明義進行集』や『没後遺誡文』の記事にもとづき、法然叡山下山後の西山広谷に移った際に円照と親しくなり、その弟覚憲の斡旋で蔵俊との面会に至ったとする説もある。著作に『因明大疏鈔』四一巻、『唯量抄』二巻、『大乗法相宗名目』一六巻、真蹟に『法華玄賛文集』一巻、『法華玄賛第九抄』一帖がある。


【資料】『興福寺別当次第』二、『台記』一一、『玉葉』七他、『百練抄』一二、『春日権現験記絵伝』一〇他、『四十八巻伝』四、『本朝高僧伝』一二


【参考】岸信宏「南都に於ける法然上人の遺跡」(『摩訶衍』一一、一九三二)、田村円澄『法然上人伝の研究』(法蔵館、一九七二)、三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)


【執筆者:平間理俊】