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良空

提供: 新纂浄土宗大辞典

りょうくう/良空

—永仁五年(一二九七)七月八日。慈心房もしくは単に慈心ともいう。良忠門下にして木幡派の祖。出自は不明。文永九年(一二七二)、後の一条派の祖である礼阿然空とともに鎌倉にくだり、良忠のもとで三年間学ぶ。帰洛後、鎮西流布教に努めたが、当時、京都での教義弘通ぐずうは難しく、然空とともに良忠の上洛を懇請した。良忠はその請いに応じて建治二年(一二七六)九月に上洛し、弘安九年(一二八六)まで京都において活動した。良忠滅後の永仁三年(一二九五)、後学者のため、然空とともに『無量寿経』の注釈を道光勧請した。同五年二月、礼阿・道光とともに、完成した『無量寿経鈔』七巻(浄全一四所収)を治定し、同年七月に入寂する。事実であるかは定かでないが、良栄理本十六箇条疑問答見聞』には良忠良空を後継者の第一人者としたという記述がみられる。良空自身に著作は残されていないが、『東宗要』の成立について、良空然空が『伝通記』などから抜粋し、良忠の校閲を請いたとする説、彼らが良忠に執筆を懇請したものとする説など諸説あり、成立に何らかの形で関わったともみられる。山城国宇治郡木幡(京都府宇治市)の尊勝寺(今は願行寺という)に住し、活動の中心としたことから良空の流れを木幡派と呼ぶ。良空はほかに尊勝寺の近辺に地蔵寺・阿弥陀寺道楽寺・地蔵院なども開創している。『総系譜』には弟子如空唯覚・善願の三人を挙げている。


【資料】『鎮流祖伝』三(浄全一七)、「鎌倉光明寺文書」(宇高良哲『関東浄土宗檀林古文書選』東洋文化出版、一九八二)、良栄『十六箇条疑問答見聞』(続浄一〇)


【参考】大島泰信『浄土宗史』(浄全二〇)、玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)


【参照項目】➡木幡派


【執筆者:沼倉雄人】