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良暁

提供: 新纂浄土宗大辞典

りょうぎょう/良暁

建長三年(一二五一)—嘉暦三年(一三二八)三月一日。寂恵ともいう。良忠の後継者として鎮西流の興隆に尽力、やがて白旗派の派祖として浄土宗の基礎を作った。浄土宗四祖。石見国三隅いわみのくにみすみ庄(島根県浜田市三隅町)の人。文永六年(一二六九)比叡山に登り、翌年東塔南谷極楽房の仙暁について出家受戒。三年間天台宗の学問に励む。同九年良忠大病の報によって鎌倉に下り、良忠から自坊悟真寺佐介さすけやつ)の坊地と寺領(鳩井)を譲られた。良暁はやがて檀越大仏おさらぎ時遠に認められ、建治二年(一二七六)良忠上洛のときは、性心尊観らと一緒に奥義の相伝を受け、良忠の代理として悟真寺を守った。京都で献身的な活躍を続けた良忠は、弘安九年(一二八六)鎌倉に帰り、法然聖光良忠三代相承の九条の袈裟、松影の硯、『阿弥陀経』などの譲状を作成して良暁に授け、さらに浄土宗の奥義のほか、翌年には『伝通記』以下の注釈類をすべて伝授して後継者の立場を明確にした。ところが良忠が入寂すると、数多くいた門下の中で、正統性をめぐって分裂が生じた。すなわち藤田派性心一条派然空名越派尊観木幡派良空三条派道光らは、それぞれ自信に満ちた態度で布教専念し、それぞれ自派の正統性を主張するようになった。こうした中で年少の良暁も懸命に宣伝につとめ一歩も譲らなかった。良暁が門下の異義を除くために作った『口伝鈔』に対して、尊観は正和三年(一三一四)『浄土十六箇条疑問答』を作って論難し、やがて個人的な批難にまで及んでいった。良暁は元応二年(一三二〇)定慧付法状を授与して正統性をのべ、元亨二年(一三二二)には寂仙付法を授けるというように、積極的な付法を行い、『浄土述聞追加』を書き、正中元年(一三二四)には『浄土述聞見聞』『浄土述聞口伝切紙』と宗義の詳説を続け、同二年には起請文の形をとった『述聞副文』を書いて門下の疑問に答えている。こうした中で相模国芦名に極楽寺を創建、武蔵鵜木光明寺教化するなど布教発展にも意を配った。晩年、弟子定慧悟真寺を譲った後も活躍を続けた。著書は多く、前述のほかに『決疑鈔見聞』『伝通記見聞』『東宗要見聞』『重書無題鈔』『選択集見聞』『浄土述聞鈔』などがある。


【参考】宇高良哲編『関東浄土宗檀林古文書選』「鎌倉光明寺文書」(東洋文化出版、一九八二)、玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)


【参照項目】➡白旗派良忠門下の六派


【執筆者:宇高良哲】