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舎利

提供: 新纂浄土宗大辞典

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しゃり/舎利

ⓈśarīraⓅsarīraを音写した舎利羅の略で、本義は身体の意味であるが遺骨をも意味する。特に仏陀や聖者の遺骨を指す。またⓈśarīraは設利羅・室利羅とも書かれ、界や性と訳されるⓈⓅdhātu(駄都)も舎利と訳され同義に用いられる。釈尊の死の直後から、遺骨はストゥーパ(仏塔)に安置されて供養され、舎利に対する信仰は、仏像への信仰より遥かに早い。初期仏典の『マハーパリニッバーナ経』では釈尊入滅荼毘に付された後、舎利は八分割され都合一〇基の仏塔が建立された。その後、マウリヤ朝のアショーカ王は、さらにこの舎利を分割しインド全土に八万四千仏塔を築いた。こうして広範に流布した舎利を納めた仏塔への崇拝は大乗仏教運動の基盤の一つとされている。さらに舎利信仰仏教東漸に伴い中国・朝鮮半島から日本へと伝来する。中国では四、五世紀に舎利塔の建立が確認され、隋代の文帝や唐代の則天武后が、インドの八万四千舎利塔にならって中国各地に舎利塔を建立している。日本には飛鳥時代に、朝鮮半島を通じて舎利がもたらされた。蘇我馬子が司馬達等しばたつとの献じた舎利を、大野丘の仏塔の柱頭に納めたという『日本書紀』の記載を初見とする。奈良時代には鑑真が唐から三千粒の舎利を請来し、続いて平安時代に入ると空海円仁らがこれを請来した。かくして唐招提寺・延暦寺などの諸大寺で舎利会が盛行し、東寺舎利への信仰大師信仰と相まって浸透していく。平安中期から鎌倉時代にかけては、末法の危機意識を克服するために、釈迦正法への回帰が志向されたことに伴う舎利信仰の高揚を背景として、舎利礼拝する簡略な法会の式次第である『舎利講式』が多く作成された。専修念仏を批判した南都仏教貞慶明恵のものは特に著名であるが、一方で浄土教においても、永観は感得した舎利を阿弥陀像に籠めて往生を祈ったと『古事談』二にあり、法然舎利講を修していたと『四十八巻伝』一六に見えるように、舎利への信仰は確認される。


【参照項目】➡舎利講式


【執筆者:舩田淳一】