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「知礼」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:29時点における最新版

ちれい/知礼

宋・建隆元年(九六〇)—天聖六年(一〇二八)正月五日。俗姓は金氏、あざなは約言、いみな知礼。四明尊者、法智大師、四明法師と称され、天台宗の一七祖とされる。明州(現・浙江省寧波)に生まれ、七歳で出家、二〇歳で天台宗一六祖宝雲義通に師事して天台教観を学び、三一歳で義通の示寂に際し、明州保恩院(後の延慶寺)に移住、そこで生涯天台教学の復興に努めた。知礼は、浄土教学に深い関心を示し、大中祥符六年(一〇一三)二月一五日に、念仏施戒会を創建した。自らの作である発会の趣意書「結念仏会疏」によれば、僧俗一万人を結集し、念仏行を修め、浄土への往生を願った。知礼自身も、天禧元年(一〇一七)に、十僧とともに法華懺法を三年間修し、焼身供養の誓いを立て、西方浄土への思慕を表したが、翰林学士楊億や駙馬都尉李遵勗に止められ焚身を断念した。知礼は、生涯において、天台『観経疏』を七遍も講じ、七日間の阿弥陀懺法を五〇遍も修めた。教理面では、『観経融心解』、『観経疏妙宗鈔』などの天台浄土関係の著書が存し、実践面では、延慶寺に十六観堂を建て、阿弥陀浄土への観想を行った。天聖六年の正月五日、知礼説法を終えたあと、阿弥陀名号を数百回唱えて示寂した。


【参考】安藤俊雄『天台学論集—止観と浄土』(平楽寺書店、一九七五)、林鳴宇『宋代天台教学の研究』(山喜房仏書林、二〇〇三)


【参照項目】➡観無量寿仏経疏妙宗鈔


【執筆者:林鳴宇】