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「知恩寺」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:29時点における最新版

ちおんじ/知恩寺

京都市左京区田中門前町。長徳山功徳院。通称百万遍浄土宗大本山開山法然法然上人二十五霊場第二二番。比叡山皇円の住房功徳院の里坊。もと賀茂の神領、今出川北小路にあったので賀茂河原屋かものかわらやという。下鴨神社の神官が美作の漆間家の出ということで、法然はよく招かれたという。法然常随の弟子源智がこれを継いで堂宇を建立し、六世如空の代になって知恩寺と号した。百万遍の号は八世善阿空円のとき後醍醐天皇の勅命により、一七日百万遍念仏を修して元弘の疫病を除いたことに由来している。足利義満の相国寺造営により一条小川へ移転。一九世大誉慶竺のとき後花園天皇から浄土一宗第一位の寺としての綸旨りんじを賜り、二一世法誉聖然は後花園上皇の臨終善知識を勤め、二五世伝誉慶秀は後柏原天皇の帰依をおおいに受けるなど宮中において地位の確立をみる。大永三年(一五二三)には知恩院香衣綸旨の執奏権をめぐる本末争いに発展し、青蓮院尊鎮の出奔もあり知恩院に有利な裁定となったが、幕府における浄土一宗第一の寺院としての地位は保たれた。それが永禄三年(一五六〇)に将軍足利義輝によって知恩院住持座次を上位とすることがあり、徐々に地位を知恩院に譲ることとなる。その後文禄元年(一五九二)には万里までの小路に移転、また寛文元年(一六六一)三九世満霊のときに堂宇が焼け、同二年に現在の北白川田中に移転した。近世の寺領は三〇石。末寺数は元禄九年(一六九六)の『浄土宗寺院由緒書』(『増上寺史料集』五、続群書類従完成会)によると約三七〇箇寺。有力末寺に八幡正法寺・亀山称名寺・羽田光明寺などがある。山内には塔頭たっちゅう寺院が九箇寺あり、本堂御影堂・観音堂・勢至堂方丈書院鐘楼経蔵などがある。所蔵古文書は、中世の後花園天皇綸旨・後土御門天皇綸旨・足利義政御判御教書ほか、近世にかけて約五〇点がある。宝物類としては、絹本著色善導大師、蝦蟆鉄拐がまてっかい仙人図、同十体阿弥陀仏像、同仏涅槃図、同浄土曼陀羅図などが国重要文化財。


【参考】水野恭一郎・中井真孝『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎、一九八〇)、『百万遍知恩寺誌要』、伊藤祐晃『浄土宗史の研究』(国書刊行会、一九八四)【図版】巻末付録


【参照項目】➡法然上人二十五霊場賀茂の河原屋


【執筆者:中野正明】


韓国釜山大庁町。明治三〇年(一八九七)仮教会所を韓国釜山本町に創立。創立主任三隅田持門。その後、土城町に移転し仮教会所を建設し、さらに同四三年に大庁町に移転して七二坪の大規模な本堂を建立、その後もさらに堂宇を増築する。第八代住職大田秀山は大正一二年(一九二三)四月に社会福祉施設の共生園を創設し、翌年に当地の教化機関として実業学校と共生女学院を設立して婦人教育を計った。その後、高瀬政太郎、福永誠次郎、山本栄吉の寄付により施設が充実した。歴代住職は、三隅田持門、首藤静也、新山法山岡部学応小林大承、椿性円、稲垣真我、大田秀山の八代である。


【参考】『浄土宗海外開教のあゆみ』(浄土宗開教振興協会、一九九〇)


【執筆者:佐藤成順】