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相対的二元論・絶対的一元論 - 版の履歴
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<td colspan='1' style="background-color: white; color:black; text-align: center;">2018年3月30日 (金) 06:28時点における版</td>
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Seishimaru
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2018年3月30日 (金) 06:28に192.168.11.48による
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<p><b>新規ページ</b></p><div>=そうたいてきにげんろん・ぜったいてきいちげんろん/相対的二元論・絶対的一元論=<br />
二つの事象が対立し互いに関連して存在することを[[相対]]といい、比較対立を超越していることを絶対というが、[[仏教]]では相待・絶待といい、大小、彼此、善悪、苦楽等対立しながら超越することをいう。[[智顗]]は『[[妙法蓮華経]]』の経題の「妙」について相待妙と絶待妙を立てる。相待妙は、『[[法華経]]』は大乗至極の経であり他の経が<ruby>権実<rt>ごんじつ</rt></ruby>を含むのに対して直ちに実を説く経とし、他に対して勝れている妙なる経であるとする。絶待妙は他と比較しなくても妙であり、大小乗権実の区別を超えて直ちに妙なる立場を表す経であるとする。このような[[相対]]絶対の是非、善悪等の対立を超越する概念は、仏と[[衆生]]、[[煩悩]]と[[菩提]]等との関係においてもいわれ、<ruby>[[不二]]而二<rt>ふににに</rt></ruby>・<ruby>二而[[不二]]<rt>ににふに</rt></ruby>の関係としてとらえられる。本来は[[不二]]であるから実体としての仏も[[菩提]]もないが、現実には[[煩悩]]に迷う[[衆生]]があるので、仏と[[衆生]]、[[煩悩]]と[[菩提]]との二つに分けられる。天台思想は「[[相対]](事)から絶対(理)へ」の論理により、[[不二]]絶対を求める特色をもつ。本来の立場では迷う[[煩悩]]も、悟らなければならない[[悟り]]もあるわけではないので、[[生仏]][[不二]]、[[煩悩即菩提]]という[[絶対的一元論]]に立つ。天台を学んだ[[法然]]は当初、[[不二]]絶対の一元的立場を究めようとしたが、[[煩悩]]を振り払うことのできない[[凡夫]]が到達することは困難であると気づき、而二[[相対]]の二元的立場をとることになる。すなわち「[[救済]]する仏」と「[[救済]]される[[衆生]]」との二元的[[相対]]の関係である。仏と[[衆生]]とは[[口称]][[念仏]]による、呼び、呼ばれる関係にある。それは「速やかに[[生死]]をはなれ」(聖典三・一八五/昭法全三四七)ることを実現するためには、[[煩悩]]から脱却できない[[衆生]]が仏の救いにより[[浄土]]に[[往生]]するという、[[相対]]的二元的[[救済]]にもとづく立場である。これに対して[[弟子]]の[[親鸞]]は、悪人を自覚しながらも[[念仏]]は自己のはからいによらない非行であり、自己のはからいによる善ではないので非善とし、ひいては自己のはからいによる非行非悪ということにもなり、[[不二]]絶対の一元的立場となる。これは天台の[[不二]]絶対論、[[本覚]]法門の影響によるものである。<br />
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【参照項目】➡[[本覚思想]]、[[相対・絶対]]<br />
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【執筆者:福𠩤隆善】</div>
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