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相即相入

提供: 新纂浄土宗大辞典

そうそくそうにゅう/相即相入

華厳経』の世界観を縁起思想によって説く華厳宗学の教説。現象世界のあらゆる事物はすべて相即相入という、互いに作用しつつ、調和を保っている関係にあるから円融無礙(融通無礙)、すなわち無尽であることをいう。この円融無礙の関係性を説くにあたって作用の面から説くのが相入、体について空と有の面から説くのが相即である。法蔵は『華厳五教章』四(正蔵四五・五〇三中~下)の中で『華厳経』一〇の「仏昇夜摩天宮自在品第一五」(正蔵九・四六五上)に説かれる十銭の比喩を用いて相即相入の説明をする。相入とは一の中に多があり、多の中に一があることをいう。一に一を加えると二になるというのは世間一般の常識であるが、実は一が二つ集まったものに過ぎず、一に一を足したそれ全体を直観することによってはじめて二という自然数が認識できるのである。したがってその一は二の意義を具有しているから、一が二をも成ずることができる。十銭の比喩ではこれを十銭と一銭の関係でとらえている。すなわち一の中には二や十のみならず三・四・五などが具わっている。このように一、二という自然数が成り立つのは、他の自然数全体との関係が内包されているからである。これを相入という。相即とは一即多、多即一であることをいう。一を立てると一は絶対の主体となり、二以下は依存従属の関係であり、一は有となり二以下は空となる。これによって一即二、一即三、一即無限数が可能となる。二を主体とすると一および三以下は二に従属し、二が有のとき一および三以下は空となり二の中に吸収される。これを相即という。また法蔵の『華厳経探玄記』一(正蔵三五・一二三上~中)では無尽縁起の理論として縁起相由の十義を挙げ、相即相入を異体の面からと(異体相入・異体相即)、同体の面(同体相入・同体相即)との両面から説く。さらに智儼ちごんの『華厳一乗十玄門』『五教章』や『探玄記』では円融無礙の関係にあることを十種の立場から説く十玄縁起無礙法門(十玄門)を説き、相即相入についてはその中の託事顕法生解門として説く。曇鸞は『往生論註』下(浄全一・二五〇上~下)の中で極楽浄土の二十九荘厳相を「広」、入一法句にゅういっぽっくを「略」とし、「広」と「略」が相入の関係にあることについて設問し、諸仏菩薩には法性法身方便法身の二種があり、法性法身から方便法身が生じ、方便法身から法性法身が生ずるので、それらは「不一不異」の関係にあり、したがって「広」と「略」も相入であるとする。


【参考】鎌田茂雄『中国華厳思想史の研究』(東京大学出版会、一九六五)、鎌田茂雄・上山春平『無限の世界観〈華厳〉』(『仏教の思想』六、角川書店、一九六九/角川文庫ソフィア、一九九六)、石井公成『華厳思想の研究』(春秋社、一九九六)、石川琢道『曇鸞浄土教形成論—その思想的背景—』(法蔵館、二〇〇九)


【参照項目】➡広略相入


【執筆者:北條竜士】