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盲亀浮木の喩

提供: 新纂浄土宗大辞典

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もうきふぼくのたとえ/盲亀浮木の喩

『雑阿含経』一五(正蔵二・一〇八下)等に出る、海底に住む盲目の亀が一〇〇年に一度海面に上がり、海上に漂う木切れにただ一つある穴に出会うことの困難をいう譬喩。『法華経』八(正蔵九・六〇上)などは亀は一眼とする。三千年に一度花を咲かすという優曇鉢羅華うどんばらけの例えと共に、人身としての結生や仏法との邂逅の稀有性、その獲得の喜びを表す。法然登山状』には「教法流布の世に遇う事を得たるはこれ悦なり。譬えば目しいたる亀の浮木の穴に遇えるがごとし」(聖典四・四九三/昭法全四一七)とある。浮木うきぎの亀ともいう。日本では文学の題材にも用いられ、例えば西行法師張騫ちょうけんがいかだに乗って天の川に行った伝説とかけて、「おなじくば、うれしからましあまのがは。のりをたづねし、うきぎなりせば」(『聞書集』、『日本古典文学大系』二九・二七六)と詠んだ。また原意とは逆に仏法に巡り合えない失望を示す場合もある。「悲しきかなや身は籠鳥、心を知れば盲亀の浮木…」(謡曲『鵺』、『日本古典文学大系』四〇・三〇五)。


【執筆者:小澤憲雄】