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皇円

提供: 新纂浄土宗大辞典

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こうえん/皇円

—嘉応元年(一一六九)か。比叡山東塔西谷功徳院の天台僧で法然の師。藤原重房の孫で重兼の子。甥に隆寛がいる。重房(もしくは兄資隆)が肥後守であったことから肥後阿闍梨と呼ばれた。椙生すぎう流の祖で天台顕教に秀でた皇覚に学ぶ。椙生流の嫡流は皇覚—範源—俊範と次第し、皇円は傍系にいたようで論義等の仏事活動は判明せず官位も得ていない。久安三年(一一四七)源光のもとから法然が入室し弟子となる。『四十八巻伝』三によると、法然出家受戒後、遁世の意向を示したが皇円天台三大部を学ぶよう諭して研鑽させる。三年にわたる学習の結果、さらに学道につとめ「円宗の棟梁」をめざすよう勧めたが、法然は名利を嫌って固辞、同六年黒谷叡空の室へ移ったという。法然が一時的に椙生流に属して天台教学を学びはじめたことは注目される。また甥の隆寛皇円弟子となり、後に浄土宗へ転向する。『明義進行集』二には法然隆寛の関係を、「律師隆寛法然上人ノ為ニハ、天台宗ニハ同法ナリ、トモニ皇円ニ伝受スルカユヘニ、浄土宗ニハ弟子ナリ、後ニ依附スルカユヘニ」(浄土仏教古典叢書明義進行集』)と述べている。『醍醐本』や『四十八巻伝』三〇には、出離生死に不安をいだいた皇円が、弥勒仏の出世を待つため大蛇の身となり遠江とおとうみ国笠原庄の桜ヶ池に住みついたという話を載せる。また『扶桑略記』の編者とされてきたが近年は疑われている。


【参考】田村円澄『法然上人伝の研究 新訂版』(法蔵館、一九七二)、堀越光信「『扶桑略記』皇円撰述説に関する疑問」(『国書逸文研究』一四、一九八四)


【参照項目】➡桜ヶ池


【執筆者:善裕昭】