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無所有

提供: 新纂浄土宗大辞典

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むしょう/無所有

何も所有しないこと。無所有は最初期聖典『スッタニパータ』(四五五)に、ブッダ自身が「私はバラモンでなく、王族でもなく、庶民でもなく、他の何者でもない。凡人たちの種姓を知りつくした上、無一物の聖者として世を渡る」とあるように、仏教の掲げる基本的立場である。しかしその後、仏教者は雨期でも遍歴し、地中から出てくる虫を踏み殺すのは、不殺生の精神に反するというジャイナ教徒からの非難により、一処に定住するようになった。当初の住まいは、粗末な雨露をしのぐだけのものであったが、徐々に恒久化した建物に変わっていった。これが土地と精舎しょうじゃつまり所有の始まりとなった。修行僧への布施、寄進には多大な功徳があるとされ、多様な品物の寄進が教団に寄せられ、教団は多くのものを所有するようになった。その結果、「無所有」の理念は消滅したかにみえるが、大乗仏教になると再び無所有の理念が強調された。大乗の最も古い経典の一つ『郁伽長者所問経』には、修行僧はあらゆる生活資材を捨てよとあり、『十地経』では修行の第一段階(第一地)でまず財産、園林おんりん、精舎、妻子はむろん、時に頭、肉、心臓などまで捨てよと強調される。さとりの内容の一つである中道無所有でなく、具体的に少欲知足をいう。これは最低限の所有だけを許す考え方であるが、無所有を厳格に守るジャイナ教徒は、少欲知足をも非難した。


【参考】西村実則「仏教における無所有の精神」(正大紀要九二)、同「少欲知足」(『多田孝正博士古稀記念論集 仏教と文化』山喜房仏書林、二〇〇八)


【参照項目】➡少欲知足


【執筆者:西村実則】