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無我

提供: 新纂浄土宗大辞典

むが/無我

ⓈanātmanⓅanattanの訳語。「我(アートマン)でない」(非我)と「我(アートマン)がない」(無我)の二つの解釈がある。初期仏教では、ウパニシャッドで説かれた恒常不滅なるアートマンが存在するかしないかという形而上学的問題を離れ、現実世界でのもののあり方を見つめたために、それがあろうがなかろうが「すべてのものは我でない」(諸法無我)と説いた。すなわち、無常変化していくものを自分の固定観念で「わがもの」と見る我執を離れるために、「我でない」(非我)と主張した。しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人間という存在は五蘊ごうんが仮に和合した無常なるものであり、そこに恒常不滅なる自我の存在はないという「人無我」、すべてのものは縁起によって起こるもので、そこに恒常不滅なる本体はないという「法無我」の二つが考えられた。これは大乗仏教にも継承され、特に般若思想はこの「無我」を「空」と表した。また、説一切有部のアビダルマ無我の論証のために存在の分析を行ったが、これ以上分析できない最終段階のものは「実有」とされ、「無我」説と矛盾することになった。中観派の哲学はそれを批判し、ものには永遠不滅の固定的な本体がない「無自性=空性」として「無我」説を再構築した。


【参照項目】➡縁起アートマン


【執筆者:吹田隆道】