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無余涅槃・有余涅槃 - 版の履歴
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<td colspan='1' style="background-color: white; color:black; text-align: center;">2018年3月30日 (金) 06:34時点における版</td>
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Seishimaru
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<p><b>新規ページ</b></p><div>=むよねはん・うよねはん/無余涅槃・有余涅槃=<br />
無余[[涅槃]]は、すべての[[煩悩]]を滅し尽し、肉体も滅して心身の束縛を完全に離れたさとりの状態。Ⓢnirupadhiśeṣa-nirvāṇaⓅanupādisesa-nibbānaの訳。無余、<ruby>無余依<rt>むよえ</rt></ruby>、無余依[[涅槃]]、また<ruby>般<rt>はつ</rt></ruby>[[涅槃]]ともいう。無余とは残されたものが何も存在しないことを意味する。これに対し、すべての[[煩悩]]を滅していても、未だ生存の根源である肉体が残っていて、五官によって快不快などを感じる状態を[[有余涅槃]](Ⓢsa-upadhiśeṣa-nirvāṇaⓅsa-upādisesa-nibbāna、[[有余]]、<ruby>[[有余]]依<rt>うよえ</rt></ruby>、[[有余]]依[[涅槃]])という。元来、[[涅槃]]は[[釈尊]]が[[成道]]時に達したことから、生存中に得られるものとされていた。しかし、[[輪廻]]・業からの[[解脱]]を実現するために[[涅槃]]と死が結びつき、また[[涅槃]]に達した[[解脱]]者の死後のあり方に対する関心から、まず無余[[涅槃]]が説かれ(『長[[阿含]]経』二、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V01.0016a.html 正蔵一・一六上])、後に生前の[[涅槃]]を表す用語として[[有余涅槃]]が説かれ、二種の[[涅槃]]説が成立したと考えられる(『増一[[阿含]]』七、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V02.0579a.html 正蔵二・五七九上])。『[[婆沙論]]』三二([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V27.0167b.html 正蔵二七・一六七中]~八下)では、この二種の[[涅槃]]に種々の見解があることを示しつつ、結論として[[寿命]]があるか否かが両者の区別であるとするが、無余[[涅槃]]が最高の目標とされた。これに対し[[大乗仏教]]では「[[菩薩]]は無余[[涅槃]]に住してはならない(趣意)」(『小品[[般若経]]』一、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V08.0540b.html 正蔵八・五四〇中])とされたり、「[[方便]]で[[涅槃]]を現じたが、常に住して[[説法]]する(趣意)」(『[[法華経]]』五、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V09.0043b.html 正蔵九・四三中])とされ、やがて<ruby>[[無住処涅槃]]<rt>むじゅうしょねはん</rt></ruby>([[生死]]にも[[涅槃]]にも住しない[[涅槃]])が主張された(真諦訳『[[摂大乗論]]釈』一三、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php?vuseid=31.0247a中 正蔵三一・二四七上中])。無余[[涅槃]]は<ruby>[[灰身滅智]]<rt>けしんめっち</rt></ruby>(身体を灰にし、心を滅すること)とも呼ばれ、死によってすべてが無に帰するという消極的な見解と考えられるようになった。<br />
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【参考】藤田宏達「涅槃」(岩波講座『東洋思想』九、一九八八)<br />
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【参照項目】➡[[涅槃]]、[[灰身滅智]]<br />
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【執筆者:榎本正明】</div>
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