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涅槃 - 版の履歴
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Seishimaru
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2018年3月30日 (金) 06:31に192.168.11.48による
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<p><b>新規ページ</b></p><div>=ねはん/涅槃=<br />
苦しみが消滅した状態。覚りの境地。ⓈnirvāṇaⓅnibbānaⓉmya ngan las ’das pa。Ⓢnirvāṇaの音写語で<ruby>泥洹<rt>ないおん</rt></ruby>などともいい、滅度や寂滅と意訳される。また[[無為]]や[[択滅]]と同義とされる。[[涅槃寂静]]として[[三法印]]の一つに数えられる。[[涅槃]]は[[煩悩]]を滅し尽くした境地であり、『スッタニパータ』二六七偈に「[[涅槃]]を体得することが無上の幸福である」と説かれているように、[[仏道]][[修行]]者の目指すべき到達点である。また[[涅槃]]は、[[煩悩]]の火が滅した状態、あるいは[[煩悩]]という<ruby>薪<rt>たきぎ</rt></ruby>が[[智慧]]の火によって焼き尽くされた状態に喩えられる。[[煩悩]]を滅するのは[[智慧]]の働きであるから、[[涅槃]]を得るためには[[智慧]]が必要である。この[[智慧]]は戒を守り[[禅定]]を実践することで獲得すべきもので、[[智慧]]によって心と[[煩悩]]の<ruby>繫<rt>つな</rt></ruby>がりを断ち切ることが[[仏道]]実践の目的である。『[[俱舎論]]』一では、[[涅槃]]が[[仏法]]の中において最も勝れた法であるとされ、また『同』一四には「[[帰依]]法とは、謂わく、[[涅槃]]に帰するなり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V29.0076c.html 正蔵二九・七六下])とあり、[[仏法]]に[[帰依]]するとは[[涅槃]]に[[帰依]]することとしている。[[涅槃]]には、<ruby>[[般涅槃]]<rt>はつねはん</rt></ruby>や[[有余涅槃]]・無余[[涅槃]]、また[[無住]]所[[涅槃]]や本来自性[[清浄]][[涅槃]]等の種類がある。[[有余涅槃]]・無余[[涅槃]]は、[[有余]]依[[涅槃]]・無余依[[涅槃]]ともいわれる。[[有余涅槃]]とは[[煩悩]]を完全に滅した[[涅槃]]であり、無余[[涅槃]]とは[[有余涅槃]]に至った者が、さらに死によって身体的な苦からも脱した[[涅槃]]である。[[般涅槃]]とは、時に大[[般涅槃]]ともいわれ、完全な[[涅槃]]を意味する。これは「無余[[涅槃]]界において[[般涅槃]]す」などといわれるように、無余[[涅槃]]と同様の意味であり、いかなるものごとにも煩わされることのない寂静の境地であり、心身が[[輪廻]]から離れた完全な消滅である。本来自性[[清浄]][[涅槃]]とは本来[[清浄]][[涅槃]]などともいわれ[[真如]]を意味する。[[無住]]所[[涅槃]]は不住[[涅槃]]などともいわれ、[[大乗仏教]]が理想とする[[涅槃]]である。これは[[菩薩]]の目指すべき[[涅槃]]であり、[[智慧]]によって[[煩悩]]を断ち切っているが、[[衆生]]を救う[[利他]]行の実践のために[[輪廻]]からは離れることのない[[涅槃]]である。この[[無住]]所[[涅槃]]は「[[生死即涅槃]]」や「[[煩悩即菩提]]」という考えと結びつくものであり、[[智慧]]と[[慈悲]]を兼ね備えて、覚りの[[世界]]と[[輪廻]]の[[世界]]とを自由に行き来して[[救済]]活動をすることが、[[大乗仏教]]の理想であることを示すものである。<br />
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【資料】『成唯識論』一〇、『北本涅槃経』四<br />
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【参照項目】➡[[生死即涅槃]]、[[成仏]]、[[無余涅槃・有余涅槃]]、[[般涅槃]]<br />
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【執筆者:石田一裕】</div>
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