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浄土真宗

提供: 新纂浄土宗大辞典

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じょうどしんしゅう/浄土真宗

法然宗祖と仰ぐ浄土宗のこと。浄土教真宗と称することは、善導観経疏』に「真宗遇いがたく、浄土かなめ逢い難し」(聖典二・三二四/浄全二・七二上)とあることにはじまり、法照五会法事讃』にも「念仏三昧は是れ真宗なり」(浄全六・六八二下正蔵四七・四七九下)等、盛んに用いられている。法然は『逆修説法』(昭法全二三六)において、浄土法門の宗名の由来をこの善導の文をもって説明している。法然門流はこれらの説示を根拠に、法然の教えを指して真宗浄土真宗と呼ぶようになった。澄円は『浄土十勝箋節論』四に「浄教は是れ真実究竟最上大乗の頓法なり。故に真宗と名くるのみ」といい、聖冏は『浄土真宗付法伝』(続浄一七・二九五)を著す他、諸著作において積極的に浄土真宗という宗名を用いている。金戒光明寺山門には、聖冏と同時代の後小松天皇宸翰しんかん浄土真宗最初門」の勅額が伝えられている。


【参照項目】➡宗名宗名争


【執筆者:吉水岳彦】


親鸞宗祖とする宗派。真宗ともいい、一向宗門徒宗、本願寺宗などとも他称されていた。親鸞が九〇歳で弘長二年(一二六二)に死去した後、娘の覚信尼が墓所を営み、墓所が大谷廟堂に展開。覚信尼が廟堂を守護し、その役は留守職と称され、東国門弟集団が運営のための諸経費を負担した。覚信尼没後、孫である覚如が廟堂の寺院化を図り、寺号本願寺と称した。親鸞生前からの直弟子であった真仏や顕智は関東で高田門徒を形成。また順信の鹿島門徒や性信の横曽根門徒など、関東各地の地名を付した門弟集団が地域ごとに成立した。

覚如真宗法然親鸞・如信の三代により伝承されたとする三大伝持の血脈(法脈)を著作により主張し自らを本願寺三世と任じ、東国門弟との乖離を招来することになった。覚如は「信心正因称名報恩」の教義を説き、本願寺中心主義を取る。一方、覚如の長男である存覚は広く他の門弟とも関わり、その交遊が覚如による存覚義絶にも繫がったとみられる。存覚仏光寺了源とも交わり、存覚の影響下に絵系図なども描かれる。またこの頃、仏光寺派や三門徒派などの流派が生じた。覚如以降、本願寺は善如・綽如・巧如・存如と次第するが地域的な伸展に止まった。

教団としての発展は八世蓮如の登場によってなされた。継職後の蓮如は宗風の是正に努めるが、この行動は比叡山延暦寺からの弾圧を招き、蓮如は各地を転々としていく。蓮如は移動先でも積極的に布教し、特に吉崎では「御文おふみ」(御文章ごぶんしょう)の精力的な執筆や『正信偈和讃』の開版も行われ多大な成果をあげた。さらに蓮如御文を用いて各地の門徒を積極的に教化し、講の結成や名号下付により、本願寺教団門徒の帰属意識を高める工夫を次々と行った。蓮如伝道は、教団の急速な勢力拡大に影響を与えた。同時代の高田派の真慧は、当初は蓮如と良好な関係にあったが、後に袂を分かつことになった。高田派は真慧の時期に伊勢に本山を移転した。吉崎を起点として急激に人数が増加した本願寺教団には他派や他宗から門徒の流入も続き、北陸一向一揆にも繫がる大きな勢力となっていく。

蓮如没後の本願寺は、大坂本願寺を拠点とし実如から証如へと推移する中で、教団は社会的な立場も確立した。時期的には戦国時代であったが、次の顕如の頃になり宗教勢力に対して厳しい弾圧を加えていた織田信長との戦いも生じ、この戦いに敗れた本願寺は大坂を退去し紀伊国鷺森に移転した。天正一九年(一五九一)に京都に再び戻った本願寺であるが、翌年顕如が死去した。顕如没後、長男である教如が本願寺を継職したものの、豊臣秀吉が弟の准如を援助し、教如は引退の形を取った。その後、徳川家康の後援により教如は再任し、慶長七年(一六〇二)、新たに本願寺を別立して東本願寺となった。

近世を迎えた真宗は、徳川幕府の宗教政策下で教団としての活動を行っていく。本末制度により本山末寺の関係が固定され、寺檀制度により各寺院檀家の関係が密接となった。江戸時代を通じての宗教思潮の高まりが、仏教教団に対する追い風となる側面もあった。また僧侶養成学校については江戸初期から教団をあげて学林の設立を図り、学問(宗学)研究の振興にも繫がった。一方で、儒者の批判や富永仲基が提唱した大乗非仏説からの影響もあった。

明治時代になり神仏分離令が公布され、各地で寺院統合や仏具破壊などの廃仏毀釈運動が行われた。神道を中心とする政策の中で大教院も設立された。肉食妻帯の認可や上知令も出され、仏教全体に与えた影響は大きく、真宗教団にも及んだ。僧侶仏教独自の布教を禁止され、三条の教則に沿った説教を行うよう強制され、明治初年は仏教の特色がやや喪失した時期であった。ただし、島地黙雷らの尽力で真宗大教院分離行動がなされ、この前後に各宗派の独立もあった。明治五年(一八七二)には浄土真宗の名称が公許された。

廃仏毀釈以後の真宗教団は社会活動にも積極的に関与し、海外開教や一般学校(大学)設立などにも勤しみ、仏教の近代化と再生を図っていく。井上円了や清沢満之をはじめ教団内には多数の先駆的な学者が登場し、大谷探検隊の成果も含め、仏教学仏教史学・哲学・宗教学などの近代学問分野の構築に対して大きな貢献をなした。

真宗教義としては阿弥陀仏の絶対他力による救済を説き、「浄土三部経」中の『無量寿経』を重視。主要な根本聖典として親鸞の『教行信証』があり、親鸞の言行録である『歎異抄』も著名である。


【参照項目】➡親鸞真宗十派宗名争


【執筆者:浅井成海】