操作

浄土教

提供: 新纂浄土宗大辞典

じょうどきょう/浄土教

総論==[定義]== まずは浄土(すなわち仏国土)に往生し、その浄土修行して成仏悟りを目指す教え・信仰のこと。「浄土門」ともいう。いかなる浄土であろうと、浄土への往生を目指すなら浄土教といえる。例えば阿閦仏あしゅくぶつ妙喜世界への往生を目指す教えも浄土教である。また、弥勒菩薩兜率天への往生も、広い意味では浄土教に含められる。ただし、一般に浄土教という場合、「浄土三部経」等に説かれるところの、阿弥陀仏極楽浄土への往生を目指す教え・信仰を指すことが大半である。これは諸々の仏・浄土の中で、阿弥陀仏極楽浄土が群を抜いて広く信仰を集めたからといえよう。以下では、この弥陀浄土(すなわち極楽)への往生を目指す教えに限って述べる。

[教理]

浄土教の教えは二段階で悟りを目指す点に特色がある。浄土教以外の教え(聖道門)が、この迷いの世界で直接悟りを目指すのに対し、浄土教浄土門)は、この迷いの世界ではまず極楽への往生を目指し、極楽往生したのち、そこで修行を積んで成仏悟りを目指す。よって、阿弥陀仏信仰が説かれていても、極楽への往生が目指されていなければ、それは厳密な意味では浄土教とはならない。

往生には二つの条件がある。一つは行。往生するために必要な「往生行」のことである。弥陀浄土教の根本聖典である『無量寿経』では、往生行四十八願の第十八・十九・二十願、および下巻の冒頭とそれに続く三輩段に説かれると見なすのが一般的である。これらの箇所では様々な行が説かれているが、中でも重要なのが念仏(サンスクリット本ではⓈanu-√smṛ随念、Ⓢmanasi-√kṛ作意に相当)と聞名であるといえよう。特にその後の浄土教の歴史において、念仏往生行の中心としてより明確に意識されるようになってゆく傾向を有し、また念仏自体も観想念仏から称名念仏へと重心が推移してゆく傾向がみられる。そしてこれらの傾向の到達点が法然である。法然は第十八願のみに往生行が説かれているとして、そこに説かれる往生行念仏のみ、しかもそれは称名念仏に限るとした。また、法然聖道門の行が難行であるのに対し、浄土門の行は易行であると位置づけ、その後の日本浄土教における基準となってゆく。もう一つの条件は信である。『無量寿経』の第十八願では「至心信楽しんぎょうして、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念」(聖典一・二二七/浄全一・七)とあり、「信楽」を信と見なすことができるとすれば、既に第十八願において行と並び信が往生の条件として説かれていることになる(なお、サンスクリット本で信はⓈprasanna-citta清澄な心やⓈprasāda浄信に相当すると考えられる)。また後半の「我が国に生ぜんと欲」する心も後世願生心として広い意味での信に分類され、その意味では浄土教において信は最初期の段階から往生の必要条件であった。ただし、信は行と並列的に重視されたかというと、基本的に法然以前は信より行が重視されていたといえる。例えば、源信往生要集』なども、行を中心に全体が構成されていて、信が行と対等、もしくはそれ以上に重視されるようになるのは、やはり法然をもってその嚆矢こうしとする。この行と信という二つの条件が揃えば、阿弥陀仏は自身の本願力誓願力)すなわち他力行者回向し、行者はその本願力に乗じて極楽往生することになる(なお、他力の考え方が明確に説き示されるようになるのは、中国の曇鸞以降といえる)。

ところで、往生そのものは基本的には死の瞬間になされる。その際、『無量寿経』の第十九願に説かれるごとく、行者阿弥陀仏聖衆来迎を受け、阿弥陀仏引接いんじょうされて極楽に向かう。極楽までの所要時間は、「浄土三部経」のいずれにおいても瞬時とされる。また、生まれる際は極楽の蓮池にある蓮のつぼみの中に化生けしょうする。その蓮が開いて後は、極楽修行を行う。極楽の諸要素は修行に最適の環境となっており、自然修行が増進する。さらに極楽往生すれば皆、不退転菩薩となる故に、修行が退転することもない。しかも、第十一住正定聚願と第二十二必至補処願において、阿弥陀仏極楽往生した者を悟りに至らしめると誓っているので、往生すれば必ず成仏することができることになる。なお、極楽往生後の修行についてはあまり述べられることはないが、『無量寿経』では「菩薩の諸波羅蜜」や「諸もろの三昧門」(聖典一・二六〇/浄全一・二四)が、また『観経』では九品段で聞法三昧といった行が説かれる。法然往生後の行として、『要義問答』で「安楽浄土往生せさせおわしまして、弥陀観音を師として『法華』の真如実相平等の妙理、『般若』の第一義空、真言即身成仏、一切の聖教、心のままにさとらせおわしますべし」(聖典四・三九五/昭法全六三二)と説いている。

浄土教の起源]

浄土教は他方仏・浄土誓願といった大乗仏教的要素を前提としており、まさに大乗仏教の教えの一つといえる。大乗仏教としては最古の教えの一つで、紀元前後にその原型が現れ、紀元一、二世紀頃に『無量寿経』『阿弥陀経』の原初形態が成立したものと推測されている(ただし『観経』は四、五世紀の成立で、成立地についても中央アジアをはじめ、諸説がある)。阿弥陀仏極楽に言及する経典の漢訳者の出身地や燃灯仏信仰との関係などからして、浄土教は西北インドで成立したと推測されている。阿弥陀仏極楽に言及する経典は『般舟三昧経』をはじめとして二九〇以上現存するが、阿弥陀仏極楽、そしてそこへの往生を主題とする経典はいわゆる「浄土三部経」に限るということができる。一方、論書としては、まず龍樹作と伝える『十住毘婆沙論』が、阿弥陀仏等に対する「称名念仏)」を初めて明確に説き示した点(正蔵二六・四二下)、後世浄土教人師に注目される難行道・易行道正蔵二六・四一中)を説く点で重要である。また、無著摂大乗論』の十八円浄説なども極楽浄土との類似性が指摘されているが、何といっても世親天親)作と伝える『往生論』は、現存するインド典籍で唯一、弥陀浄土のみについて説く論書である点、五念門という体系的な往生行を説いた点でも重要といえる。したがって浄土宗では「浄土三部経」に本書を加えて「三経一論」とし、所依の論書に位置づけている。


【参考】藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)、香川孝雄『浄土教の成立史的研究』(山喜房仏書林、一九九三)、『講座大乗仏教五 浄土思想』(春秋社、一九八五)


【参照項目】➡阿弥陀仏浄土極楽念仏往生本願力自力・他力十住毘婆沙論往生論


【執筆者:安達俊英】


[中国]

仏教が中国に伝来し、その聖典が漢訳されると、すぐさま阿弥陀仏とその浄土往生を説く経典も漢訳されるようになった。八世紀中国天台宗湛然が『止観輔行伝弘決』に「諸教の讃ずるところ、多く弥陀にあり」(正蔵四六・一八二下)と述べているように、インド以来、浄土教教義信仰が他を圧倒していたことがわかる。それらの中でも特に重要なものとして、善導六部往生経を、法然正依の経論傍依の経論を挙げ、また『長西録』には五〇〇部を超える浄土教の典籍が列挙されている。中国における独自の浄土教信仰は、はやく東晋の廬山慧遠にはじまる。慧遠は有志とともに結社を組織して念仏に励んだといわれている。つづく南北朝になると、阿弥陀仏の像が多く造られるとともに、万善万行の実践とその回向による救済を願うようになった。ただし現世利益への希求や弥勒信仰との融合が顕著で、後世の純粋な阿弥陀仏信仰とは異なる。これが南北朝末期になると、ようやく阿弥陀仏の造像・西方浄土への願生往生行としての念仏の三者が揃ってくる。それは『観経』の流布と無関係ではない。つまり『観経』に説かれる因(実践行)と果(往生)の関係が浸透してきた結果である。つづく隋唐でも『観経』の影響は大きく、経典の注解だけではなく、儀礼を通した礼拝讃歎懺悔念仏の実践が民衆に広まり、天台宗禅宗三階教の教理を取り入れた浄土教信仰は新たな局面へと進展していった。それを牽引したのは道綽善導、また法照飛錫であった。また、この時代の各種往生伝類に、経典に説かれている実践体系の拘束を受けない信仰が土着的習俗とともに描写されていることは注目できる。隋唐までの浄土教師資相承教団組織が厳格ではなく、単なる信仰グループにとどまっていた。しかし長い間諸宗に附属する信仰グループであったということが、結果的には浄土教の教理を深化させることになった(たとえば華厳浄土・天台浄土真言浄土・禅浄・律浄などの台頭)。これら浄土教解釈の相違をめぐる議論と実践の過程で浄土教はしだいに醸成されていったのであり、実はこのことが浄土教の衰退を抑止したともいえる。宋代になり、宗暁の『楽邦文類』や志磐の『仏祖統紀』において、それぞれ浄土六祖と浄土七祖相承説が立てられ、また東晋の慧遠を慕う士大夫や知識人らが新しい念仏結社を組織して盛んに活動を展開することにより、浄土教を独立した宗派として立ち上げようとする機運が高まっていく。ついで一六世紀明代の雲棲袾宏うんせいしゅこう浄土八祖に選定されると、浄土教は中国仏教における地位を獲得するにいたる。近代以後の中国浄土教の基礎は、この袾宏によって確立された。その著作は弟子によって『雲棲法彙』三四巻としてまとめられた。満州族が支配した清朝の仏教居士仏教といわれるように、在家知識人による仏教研究と実践が盛んであり、清末になると出家教団の権威は失墜していく。居士では彭際清が『観無量寿仏経約論』一巻や『浄土聖賢録』九巻を著して浄土教の宣揚につとめ、楊文会も中国で散逸した浄土教聖典を日本から譲り受けて金陵刻経処において発刊した。出家者では印光が各種慈善事業や仏教書を印行するとともに、念仏を広めた功績により蓮宗第一三祖となる。その少し後に出た太虚は人間仏教念仏禅を唱導した傑僧として著名である。

現代中国においても念仏信仰は広く社会に浸透しているが、全国の浄土教寺院を統括するような組織というものはなく、真俗一貫の信仰として口称念仏や『阿弥陀経』が読誦され、地域を問わず親しまれている。特に旧暦の一一月一一日から一七日までは、大陸も台湾も阿弥陀仏の誕生日を祝う打仏七(打七・打念仏七)を盛大に行っている寺院が多数ある。


【参考】望月信亨『支那浄土教理史』(法蔵館、一九四二)、小笠原宣秀『中国近世浄土教史の研究』(百華苑、一九六三)、道端良秀『中国浄土教史の研究』(法蔵館、一九八〇)、野上俊静『中国浄土教史論』(同、一九八一)、陳揚炯著・大河内康憲訳『中国浄土宗通史』(東方書店、二〇〇六)


【執筆者:齊藤隆信】


[日本]

日本においては、飛鳥時代の七世紀初めに阿弥陀仏信仰が伝来していたようで、既に恵隠が七世紀中頃に『無量寿経』の講義を行っている。ただし、釈迦弥勒・薬師信仰などに比べるとその信仰は微々たるものであったと考えられるが、次第に広まりをみせてゆき、阿弥陀仏像阿弥陀浄土変相図が伝来・作成され、さらには奈良時代になると阿弥陀堂が造立された記録が残されている。経典としては『称讃浄土経』『阿弥陀経』が普及し、論書では道綽善導系と新羅系が多く伝来した。浄土教の論書を著した学僧としては、三論宗智光華厳宗智景ちけい(憬)、法相宗の善珠が知られるが、そこには新羅浄土教の影響が強く見られる。また、この時代では当麻曼陀羅智光曼陀羅といった現存する浄土変相図の伝来・作成も見逃せない。ただし、少なくとも奈良時代までは、往生は説かれても、それは追善が目的であり、またその信仰も庶民まで浸透していたかは不明である。

平安時代になると、天台宗三祖円仁が、唐より持ち帰った法照五会念仏を常行三昧として修し、それが不断念仏(特に比叡山のそれを「山の念仏」と呼ぶ)となって、天台浄土教の礎が築かれることになる。そして九世紀後半から一〇世紀には、増命・実性などの西方願生者が現れ、良源千観・禅瑜・静照・覚運などが浄土教の論書を著すに至る。その一方で一〇世紀には阿弥陀聖あみだひじりと呼ばれる空也が出て、庶民に念仏を広めたと伝える。その中で、日本に浄土教信仰を定着させるに最も功績があったのは、やはり源信といえよう。その著『往生要集』が日本浄土教に与えた影響は、同時代・後世を問わず、非常に大きい。例えば念仏結社の二十五三昧会の成立もその一つであり、さらには平安後期から鎌倉期に掛けて盛んに作成された「往生伝」も、源信に影響された慶滋保胤よししげのやすたねが『日本往生極楽記』を著したのに始まる。この『往生要集』を契機として、貴族・僧侶を中心に、個人信仰として自身の往生を願う浄土教信仰が格段に広まってゆくこととなる。さらに天台浄土教の広まりを受けて、三論宗では光明山寺を中心に永観珍海・覚樹・重誉などが、また真言系でも覚鑁かくばん実範・仏厳などが浄土教を宣揚した。なお、平安時代は貴族等への浄土教の広まりとあいまって、阿弥陀仏像来迎図浄土変相図、さらには阿弥陀堂浄土庭園など、浄土教文化が最も花開いた時代といえる。迎講むかえこう来迎会)が始まったのもこの時代とされる。この浄土教の広まりと並行して、遁世僧、すなわちひじりが数的にも質的にもその活動を活発化させてゆく。この聖のうちの相当数は念仏者と推定され、しかも聖は別所に住するか、諸国を遊行したので、民衆と接する機会も多く、民衆に浄土教信仰を広めるのに大きな役割を果たしたようである。

このような中、平安末から鎌倉初期にかけて法然が出て浄土宗をたて、ここに浄土教信仰仏教史上初めて、一宗として独立した。しかもその教えは「専修念仏」という、それまでの浄土教とは一線を画する革新的な教えであった。現在、日本に弘まっている浄土教のうち、良忍を祖とする融通念仏宗を除けば、浄土宗浄土真宗西山浄土宗時宗など、すべてが法然の流れを汲むものである。室町時代になると、浄土教も再び神祇信仰本覚思想と関係を持つようになり、また儒教思想の影響も見られるようになる。その一方で、他の宗派同様、民衆とのつながりを一層深めてゆく。それは念仏聖が葬儀と強く結び付いた事実や、念仏講の成立、浄土真宗の教えが一向一揆の精神的支柱となったことなどからうかがえる。江戸時代になると、浄土系諸宗も江戸幕府という強靱な国家体制の中に組み込まれることとなる。浄土宗における「往生伝」の復活や、浄土真宗における妙好人など、新たな展開も見られるが、基本的には雑修的傾向を強め、法然の時代の法難や、室町期の一向一揆といった、反権力的性格は見られなくなる。明治に入ると廃仏毀釈仏教界を襲うが、その中、浄土宗では養鸕うがい徹定てつじょう福田行誡浄土真宗では清沢満之・暁烏敏あけがらすはやなどが活躍して、教団信仰の維持に努めた。


【参考】井上光貞『新訂日本浄土教成立史の研究』(山川出版社、一九七五)、石田充之『鎌倉浄土教成立の基礎研究』(百華苑、一九六六)、佐藤哲英『叡山浄土教の研究』(同、一九七九)、長谷川匡俊『近世念仏者教団の行動と思想』(評論社、一九八〇)


【参照項目】➡法然法然門下の異流浄土宗良忠門下の六派浄土真宗真宗十派西山浄土宗時宗


【執筆者:安達俊英】


[西域]

東トルキスタンのタリム盆地をはさんだ北側にはカシュガルからクチャ(亀茲きじ)、トルファン(高昌)を経て敦煌へ通じる西域北道があり、南側にはヤルカンドからホータン(于闐うてん)を経て敦煌へ至る西域南道があった。これらの西域ルートを通じて、浄土教関係の典籍も中国へともたらされ漢訳された。後漢末に『般舟三昧経』を訳した支婁迦讖しるかせんは大月支(氏)の出身、後秦代に『阿弥陀経』を訳した鳩摩羅什はクチャ(亀茲)の出身であり、西域の諸地域において浄土経典がある程度流布し阿弥陀仏信仰が行われていたであろうことが推測される。また、『観経』は、西域出身の畺良耶舎きょうりょうやしゃの訳とされているが、サンスクリット原典もチベット訳もないため、西域で行われていた阿弥陀仏観法を整理し王舎城の悲劇を舞台設定として、トルファン付近で成立したのではないかとする説もある。また、後代には漢訳の『観経』がウイグル語にも翻訳されており、西域での流行がうかがわれる。また、西域には多くの石窟寺院開鑿かいさくされ、それらの遺跡が各地に残っている。そこには、明確に阿弥陀仏と特定しうる仏像仏画は見られないが、クチャのキジル千仏洞やクムトラ千仏洞、トルファンのベゼクリク千仏洞の遺跡などから出土した壁画や絹画の断片には、隋唐代に流行した中原地域における浄土変相図の影響が見られることから、敦煌を経て西域へと浄土教の芸術が伝わったものと考えられる。西域の浄土教に関しては、阿弥陀仏帰依往生を願ったコータン語の礼讃文などがわずかに残っているが、資料的に限られておりその全容は明らかでない。総じていえば中国や日本の阿弥陀信仰に特化した宗派的な浄土教ではなく、釈迦仏や弥勒仏などとともに阿弥陀仏信仰されていたものと考えられる。


【執筆者:西本照真】


[新羅]

七世紀後半、朝鮮半島に最初の統一国家を樹立した新羅(四世紀半ば—九三五)では、隋唐仏教の影響を受けて浄土教が隆盛した。新羅の浄土教の起源については諸説あるが、統一以前、真平王代(五七九—六三一)に恵宿が西方浄土信仰し栄州に弥陀寺を創建したことが早い事例である。またこの頃から浄土教の研究も盛んになった。その代表的な僧が、慈蔵(六〇八—六七七頃)、円測えんじき(六一三—六九六)、元暁がんぎょう法位、義湘(六二五—七〇二)、義寂憬興きょうごう、遁倫(六六〇—七三〇頃)、玄一太賢などである。慈蔵は皇龍寺に居住し、『阿弥陀経疏』一巻(欠)、『阿弥陀経義記』一巻(欠)を著した。これが新羅でもっとも早い浄土経典の注釈書である。元暁と義湘は慈蔵の居住した皇龍寺で出家した。元暁は義湘とともに入唐を志したが途中で中止して帰国した。その後、教義研究に専念し百余部を著した。その一割が浄土教に関するものであり、『両巻無量寿経宗要』一巻、『阿弥陀経疏』一巻(共に正蔵三七)、『遊心安楽道』一巻(正蔵四七)などがある。『遊心安楽道』は偽作説が有力である。元暁教義研究とともに民衆教化に励み、歌舞・音曲をもちいて称名念仏を広め、新羅社会に浄土信仰が盛んになった。義湘は元暁と分かれて入唐し、中国華厳宗二祖の智儼ちごんについて華厳を学び、帰国して浮石寺を開創し、ここを中心に華厳教学を広め海東華厳宗の初祖と仰がれるが、浄土教にも関心が深く、『阿弥陀経義記』一巻(欠)を著し、浮石寺の根本法堂を「無量寿殿」とし阿弥陀仏を安置した。法位玄一は伝記不詳であるが、玄一憬興には法位の影響があるので、法位玄一憬興より先輩であり、法位元暁は同時代である。法位の『無量寿経疏』二巻、『観無量寿経疏』二巻は散逸し、『無量寿経義疏』二巻のみは恵谷隆戒の復元本(一部損欠)がある。義寂は伝記不詳だが、義湘の十大弟子の一人である。多数の著作があり、韓国・日本の目録類によると二七部を数える。そのうち五部が浄土経典の注釈であり、『両巻無量寿経疏』三巻、『無量寿経疏』三巻、『観無量寿経綱要』、『称讃浄土仏摂受経疏』一巻は散逸し、『無量寿経述義記』は恵谷隆戒の復元本がある。義寂浄土教浄影寺慧遠の流れを汲むが、善導懐感の思想の影響が見える点に特色がある。憬興は百済の人で、百済が新羅に併合されると新羅の文武王に尊重され、次の神文王のときに国師・国老となった。唯識学の学僧として著名であり、多数の著作を著している。浄土教関係の著作には『無量寿経連義述文賛』三巻(正蔵三七)、『阿弥陀経略疏』(欠)、『観無量寿経疏』二巻(欠)、『三弥勒経疏』一巻(正蔵三八)などがある。以上の浄土教諸師の思想系統は、浄影寺慧遠地論宗系統と慈恩大師基の唯識系統とに分けられる。前者は、慈蔵、元暁、義湘、義寂法位玄一などであり、後者は円測、憬興太賢、遁倫などである。しかし最近では元暁をはじめとする『起信論』の如来蔵思想に立脚する系統と、唯識思想に立脚する憬興らの系統とに分ける説も提示されている。いずれにしろ諸師は地論・華厳・法相などの教学と並行して浄土教を研究する立場で日本のような純粋浄土教ではない。

新羅浄土教では『無量寿経』に関心が強く、したがって阿弥陀仏本願についての議論すなわち四十八願の分類・名称に関して詳論し、特に第十八願・第十九願・第二十願を重視している。そして第十八願の十念について詳細な議論がなされ自説を提示する。共通して、『無量寿経』の十念と『弥勒発問経』の悲等の十念とを関連させて解釈する点に特色がある。すなわち、元暁は、発菩提心浄土教往生正因とし、十念を助因とし、十念顕了十念と隠密の十念があるとして、『観経』の十念顕了十念凡夫十念であり、『弥勒発問経』の慈等の十念は隠密の十念凡夫の念ではなく初地以上の聖人十念であり、『無量寿経』第十八願の十念顕了と隠密の両義を合わせた十念であると主張する。法位は、『無量寿経』第十八・第十九・第二十の三願を『観経』の九品と関係づけて、第十八願を上品、第十九願を中品、第二十願を下品に配当し、第十八願の十念は上三品人のおこす十念であるから『弥勒発問経』の十念と同じであり、称名十念ではない、という立場に立って『無量寿経』と『観経』の十念とを区別している。そして『観経』の称名十念を下凡夫正因とする。玄一は、法位の説をほとんどそのまま踏襲している。憬興は、第十八願を上三品の願とする点は法位と同じであるが、第十八願の十念は『観経』の十念と同じく称名十念であると主張し、法位等が第十八願の十念を『弥勒発問経』の十念と同視するのを批判した。義寂は、『無量寿経』第十八願の十念と『観経』下下品十念はともに称名十念であって、その中に『弥勒発問経』の十種十念具足されると主張した。十念と関連して別時意の問題、逆謗除取の問題、阿弥陀仏身土の問題などが議論されている。新羅浄土教諸師の間では、阿弥陀仏の仏身・仏土を受用身じゅゆうしん受用土じゅゆうど、もしくは変化身へんげしん変化へんげどとなすのが大方で、阿弥陀仏報身報土説は見えない。また、新羅では弥陀弥勒が並行して信仰され、教義上でも両者の対立・論争はほとんどなかった。それも新羅浄土教の特質である。新羅浄土教は八世紀頃に日本に受容され、平安中期以前の日本浄土教に大きな影響を与えた。


【資料】『三国遺事』


【参考】恵谷隆戒『浄土教の新研究』(山喜房仏書林、一九七六)、韓普光『新羅浄土思想の研究』(東方出版、一九九一)、源弘之「新羅浄土教の特色」(金知見編『新羅仏教研究』山喜房仏書林、一九七三)


【参照項目】➡朝鮮仏教


【執筆者:佐藤成順】


[チベット]

チベットの浄土教は独立した宗派こそ形成しなかったが、広く一般に信仰されてきた教えで、その中でも二系統のものが有名であった。両者は、同じく『極楽願文(ⓉbDe smon)』と称される二種の願文を中心に伝承されている。第一のものは、ゲルク派の派祖ツォンカパ・ロサンタクパ(一三五七—一四一九)にはじまる伝統である。この伝統は主として『無量寿経』に基づく観想法を整理したツォンカパ作の『極楽願文』を起源とする。そしてチャンキャ(一六四二—一七一四)などのゲルク派の学僧やニンマ派に所属するミパムギャムツォ(一八四六—一九一二)たちによる注釈書あるいは観想手引書類がこの伝統の中で著されてきた。その起源をなす『極楽願文』の中でツォンカパは『無量寿経』を引用しながら「時」や「機」の問題に言及し、「欣求の対象である〔極楽国土功徳を要略したこれらを詳しく観察して、かの国への往生に対する欣求を繰り返し修習して強い欣求を起こすことが非常に重要である」とし、また「私のような劣った能力を持った者達にはそのように語らなければ往生したいという欣求の対象を詳しく観察し得ない。詳しく観察出来ないなら極楽国土功徳を見て往生の要因を修行しようという強い欣求が生じない」として、極楽国土無量寿仏の観想を勧めている。ツォンカパにしてもチャンキャにしても極楽往生のための積極的な行を勧めており、しかもその行の中心はあくまでも浄土の「観想」なのである。そして、それ以外の諸修行を時機不相応な難行として退けることは決してなかった。

第二番目の系統は、カギュ派系カルマ派のラーガアスヤによって著されたと伝承される同じく『極楽願文』と題する願文を起源としたものである。ラーガアスヤも同じく『無量寿経』に主として基づいているが、特に彼は「聞名」の功徳に注目している。彼は教証として『無量寿経』のいわゆる「聞名得益偈」を引用しながら信仰を勧めている。また「無量光仏の御眼差しは、昼に三回、夜に三回の六時に、衆生のすべてを慈しみをもって常に御覧になっており、それは例えば明鏡に映像が映るように、あるいは大海に明星がのぼるように紛うことなくお分かりになるのである。即ち、すべての衆生が心に何を思い起こしているのか、どんな雑念が通り過ぎているのかを常時事細かに御心でご了解なさっており、常にすべての衆生が語る言葉が何であるかを一つも洩らさず紛うことなく御耳でお聞きになっている」と説明している。さらに「只の一回の合掌でも、たった一度の尊崇でも確かにお考え頂けるのだ、ご了解頂けるのだと心得て、疑いなくあるのが極めて重要なのである」として、行者無量寿如来の呼応関係を説明し、それを根拠にしながら六時礼拝を勧めている。このように両伝統とも浄土教的な要素を少なからず含むが、その念仏の中心は無量寿仏の観想であり、その観想の手順も密教的なものであると言える。無量寿仏は一般には「ツェラ」つまり寿命を司る仏であるとチベットでは理解されており、上記の二系統の浄土教信仰願文作者の意図である極楽往生の行ということに止まらず、延命祈願と結びついて修されてきた。

同じく延命の祈願法として宗派を問わず伝えられているものに『阿弥陀鼓音声陀羅尼経』に基づく曼荼羅儀規がある。例えば、ジャムヤン・ロテルワンポ(一八四七—一九二四)が当時チベットに伝承されていた曼荼羅儀規を集めて編集した『ギュデ・クントゥー(タントラ部集成)』所収の曼荼羅の中、第一一番目のものは無量寿仏を主尊とするものである。この儀規はチョナン派の典籍に由来するものであるとも言われる。チョナン派の学者ターラナータ(一五七五—一六三四)による同種類の成就法儀規の相承系譜にも明らかなように、儀規の内容は主としてインド仏教の大学者ジターリ(九六〇—一〇四〇)の著作に由来している。すなわち無量寿仏を対象とする数々の観相念仏が重層的に織り込まれた一種の延命を願う祈願法とも言えるものである。いわゆる浄土教的な要素はそこでは少なく、無量寿仏の父母等の存在も記述されることなど、日本の浄土教では全く馴染みのない修法を含む。無量寿仏あるいは無量光仏瞑想の対象とする成就法はサキャ派の祖師の一人であるサキャパンディタ(一一八二—一二五一)やドゴン・パクパ(一二三五—一二八〇)によっても著され多くの他の宗派、例えばシチェ派などでも修行されてきたようである。これらの成就法では、行者は自ら観想で念じた無量寿仏と一体となって衆生利益し、行者自身は無死の甘露アミリタ)によって長寿を授かるとされる。そもそもこのような成就法がチベットにおける無量寿仏信仰を支えてきたのであって、易行としての浄土教が宗派をなすほどの独自性を持たなかった理由もそのあたりにあると言える。


【参照項目】➡チベット仏教


【執筆者:小野田俊蔵】


[欧米]

欧米で浄土教が知られるようになったのは、一九世紀に入ってキリスト教以外の宗教が話題となって成立した比較宗教学の発生を契機とする。その先駆となるのがマックス・ミュラーであり、彼と南条文雄が明治一五年(一八八二)にサンスクリット本の『無量寿経』と『阿弥陀経』を英訳して出版した頃に始まり、次のような三段階を有している。

[欧米語での紹介の時期]

明治四三年(一九一〇)に、A・ロイドが東京で英語本『親鸞とその業績』を、H・ハースがライプチヒでドイツ語本『阿弥陀仏陀』(『民族宗教文章』二—一)を、同四四年には黒田真洞が京都で英語本『法然—生涯と全業績—』を出版し、大正一〇年(一九二一)には鈴木大拙夫妻によって英語文「法然上人浄土の理想」が『イースタン・ブッディスト』第一巻に掲載された。これらによって日本浄土教の欧米への発信の端緒がもたらされた。そして同一四年には、『法然上人行状絵図(勅修御伝)』が、Honen, the Buddhist Saintとして石塚龍学と青山学院の講師コーツとによって京都から英訳出版された。これは、浄土宗開宗七五〇年記念出版であった。この英訳書によって欧米の知識人や研究者の間で法然のことが知られるようになった。以後、欧米の研究者の業績としては、一九二八年のL・ビーガーによるフランス語本『阿弥陀主義』、翌年のA・ゲルバーによるドイツ語本『法然—初期日本中世の仏教者—』(『大和』一)、そして一九三五年にはロンドンでJ・エリオットの英語本『日本仏教』が出版され、四〇年代にはドイツのH・ブチュクがドイツ語で『ルターの宗教と日本の阿弥陀仏教におけるその相応性』を出した。これらは欧米における浄土教研究の拡がりを呈しているといえる。一九五五年にはH・リュバックがフランス語で『阿弥陀』を出版し、サンフランシスコ編『仏教浄土真宗—アメリカの仏教教会—』が英語本で出された。

宗教研究における具体的理解の進展期]

昭和三三年(一九五八)に日本で開催された第九回国宗教学宗教史学会で、世界中の宗教研究者が日本を訪れ実地に日本の宗教見聞・体験する機会が生まれ、会長のR・ペッタッツォーニによる「西洋と日本の宗教の歴史的発展におけるいくつかの対比」において、積極的に日本仏教キリスト教との対比が指摘され注目された。一九六〇年代に入ると、ドイツの宗教史学者F・ハイラーが『人間の宗教』で「日本人の庶民生活の中に更に深く阿弥陀仏教が浸透した。阿弥陀仏教はすでに奈良時代に日本に流布されたが、天台宗派出身の良忍が独自の宗派へのイニシアティブを最初にとった。その独自の宗派の本来の創始者は、僧職名で法然上人と呼ばれる源空であり、元来、同じように天台修道院の修道僧である。彼は中国の浄土学派のテクストについての研究に身を捧げ…そして聖道門に対して…浄土門を…対立させた。法然上人は、この崇拝文(南無阿弥陀仏名号)を一日に六万回自ら称えたという。ただ信仰のみにかかっているのであるから、何人も、僧や尼僧だけでなく、鍛冶屋も大工も同じように救いにあずかりうるのである」(二一三頁以下)と述べている。一方で、キリスト教神学者のK・バルトが『教会教義学』一—二で「真の宗教」の項の註記で詳しく日本浄土教法然と親鸞について言及していることは注目すべきである。また、E・ベンツは論文「念仏と心の祈り」を発表し比較研究の視点を開いた。英語圏においては、A・ブルームが一九六五年の『親鸞の純粋恩寵の福音』で「善導阿弥陀仏の名を声に出して朗誦することを力説した。法然善導に従った。そして、その名を朗誦することの卓越さについての善導の主張をより一層絶対的なものとした。親鸞信仰の側面を強調することと感謝の表現のための朗誦の実践を持越すことによって、それまでの全伝統を越えていった」(二五頁)と捉える。このように、ドイツを中心とした宗教史と神学の高名な研究者とアメリカの浄土教専門研究家によって、日本浄土教法然親鸞について論及され、欧米における宗教研究の課題として積極的に取り上げられる状況が生まれた。

[日本語文献を解読して研究論考する時期]

現在では、欧米の研究者が来日して日本の研究者と交流し、実地で浄土教文献を解読し研究論考している。アメリカにおいては、先に紹介したハワイ大学のA・ブルームの著作とバーモント大学のA・アンドリュースの『凡夫の救い—著書抄と初期年譜による法然源空の生涯と思想—』、ドイツではミュンヘン大学のJ・ラウベの「ルターと親鸞との場合の信仰活動」(教授資格就任記念講演)と「法然についての研究文献への問い」(藤本淨彦『法然浄土教思想論攷』に日本語訳所収)などが注目される。これらの欧米の研究者は数年間日本に滞在研究し漢文・古文の解読理解を自ら行って学術的評価を得ている。彼らが欧米の大学で日本浄土教を講義し資料紹介と講読理解に従事していることは、その次の世代へと継続することを意味する。すなわち、次世代の研究者は日本語および日本浄土教文献解読に優れた能力を発揮し、例えば、カリフォルニア大学バークレー校のM・ブラムの凝然源信法然親鸞研究、ドイツではミュンヘン大学のC・クライネの法然浄土教宗教学的研究、M・レップの法然浄土教思想の神学的研究、S・ハイデッガーの法然親鸞教団宗派の研究、フランスではJ・デュコールの『選択集』のフランス語訳や親鸞研究などがある。浄土教研究の学会としては、国際真宗学会などが定期的に開催されている。浄土宗の場合には、アメリカ・ロサンゼルスの佛教大学ロサンゼルス校と北米別院の共催での学会や、佛教大学での学会などが単発的に開催され、浄土宗総合研究所では国際関係部門で継続的に情報の発信と収集を行っている。


【参考】藤吉慈海「欧米における浄土教的契機」(佛大紀要三九、一九六一)、J・ラウベ著/藤本淨彦訳「法然についての研究文献への問い」(『法然浄土教思想論攷』平楽寺書店、一九八八)、藤本淨彦「法然東漸」(『法然浄土教の普遍』四恩社、一九九七)


【執筆者:藤本淨彦】