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法界

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ほうかい/法界

「ほっかい」とも読む。ⓈdharmadhātuⓅdhammadhātu。dhātuは本来「要素・成分」を意味する語だが、仏教用語としては、これに「界」や「性」の意味が付加されたと考えられている。法界は初期仏教以来、大乗仏教に至るまで幅広く使用される語であり、それに伴ってその意味内容も多義にわたる。たとえば初期の段階では法界十八界の一つで、意識の対象となるものを意味し、十二処でいえば法処にあたる。しかし大乗仏教になると、これは単なる意識の対象ではなく、宗教的な本源を意味するようになった。つまり、この全宇宙の存在を法(真理)とみなし、真如と同じ意味で使われるようになる。華厳教学ではこれに事法界相対・差別の現象界)、理法界(絶対・平等の実体界)、理事無礙法界(現象界と実体界が本来一如で差別のないこと)、そして事事無礙法界(現象界と実体界が本来一如であるから、現象界の個々の事象も互いに差別はなく、相即無礙であること)という四種を立てて、世界のあり方を説明する。したがって法界は、万物を包含する全世界・全宇宙の意味でも使用される。次に浄土教における用法であるが、善導の『観経疏定善義には「法界と言うは三義あり。一には心遍ずるが故に法界を解す。二には身遍ずるが故に法界を解す。三には障礙無きが故に法界を解す」(聖典二・二六六/浄全二・四七上)とあり、法界は心身が遍満して障礙のない世界と説明されている。また良忠の『伝通記定善義記二には「法界というは所化の境、法は謂く軌持、軌として物の解を生じ、能く自性を持つ。界は謂く種族種類、多なるが故に衆生を界と名づく。又事理二種の法界あり。今は其の事を取る」(浄全二・三四三)とあるので、法は自性を任持して物解を生ぜざることをいい、界は一切衆生を指す語ととらえ、しかも事理二種の法界のうち、事の法界浄土宗の立場としている。


【参照項目】➡十二処十八界法界身四法界


【執筆者:平岡聡】