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法然院

提供: 新纂浄土宗大辞典

ほうねんいん/法然院

京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町。善気山万無教寺。単立寺院新撰元祖大師二十五霊場第一九番。法然弟子安楽住蓮別時念仏をはじめ、六時礼讃を勤めた旧跡と伝える。延宝七年(一六七九)知恩院三八世万無知恩院山門前新道をひらく際、祇園社に譲与した地所の替地として幕府から与えられた鹿ヶ谷の地に、同八年七月弟子忍澂の尽力を得て、法然の旧跡を復興し、持戒清浄の念仏道場建立を発願。翌年五月客殿造りの堂宇・庫裡が完成した。万無は「中興旨趣六意」を忍澂付属し、寺法一七ヶ条を立て、翌月遷化した。忍澂は師の遺志を守り、不断念仏六時礼讃持戒修道の行法を立て、中国廬山東林寺念仏結社である白蓮社の遺風を慕い、「白蓮小清規」を作った。境内黄檗おうばく独湛の指南によって、廬山の風致を移したといわれる。江戸時代は無本寺で、三〇石の朱印地を有した。方丈は後西天皇の皇女誠子内親王御座所を移したといい、狩野光信筆「桐ニ竹図」「若松図」「槙ニ海棠かいどう図」などの一四面の障壁画は国重要文化財。延応版『選択集』(宗宝)、『師秀説草』などを蔵す。墓地には内藤湖南、河上肇、谷崎潤一郎ら文化人の墓が多い。


【資料】『四十八巻伝』三三、『翼賛』四九


【参考】江藤澂英『忍澂上人』(増上寺出版部、一九三五)、小林月史『獅子谷法然院』(小林喜久一、一九五七)、宇高良哲「鹿谷法然院の草創について」(『仏教論叢』一六、一九七二)


【参照項目】➡忍澂


【執筆者:山本博子】