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長元六年(一〇三三)—天永二年(一一一一)一一月二日。[[東大寺]]七[[三世]]別当を務めた。「[[念仏宗]][[永観]]」と自ら標榜し、生涯にわたり[[一心]][[称念]]を貫いた南都[[浄土教]]を代表する僧。「ようかん」とも。[[東大寺]]東南院から[[念仏]][[別所]]の[[光明山寺]]に移り、のちに京都[[東山]][[禅林寺]]に住した。[[永観]]が住したことから同寺は[[永観]]堂と通称される。また、[[禅林寺]]の[[本尊]]は「<ruby>顧<rt>みかえり</rt></ruby>[[阿弥陀如来]]」とよばれ、[[永観]]の[[修行]]中に示現した[[阿弥陀仏]]の姿を[[仏師]]に刻ませたと伝えられる。[[永観]]の祖父は源<ruby>国挙<rt>くにたか</rt></ruby>、父は源<ruby>国経<rt>くにつね</rt></ruby>。幼名は明らかではなく、二歳のときに石清水八幡宮別当、元命[[法眼]]の養子となる。八歳のとき、山崎開成寺に入り[[住持]]から「[[不動明王]]呪」を伝授される。一一歳のとき、当時[[東大寺]]別当でもあった[[禅林寺]]深観に師事し、このときに[[永観]]と名を改めたという。寛徳元年(一〇四四)、深観が別当を務める[[東大寺]][[戒壇院]]で[[具足戒]]をうけ[[出家]]し、[[東大寺]]東南院で[[三論宗]]の学侶となり修学に励んだ。東南院有慶のもとで三論、法相([[唯識]]学)、<ruby>[[因明]]<rt>いんみょう</rt></ruby>(論理学)を学び、一四歳のとき<ruby>方広会<rt>ほうこうえ</rt></ruby>の<ruby>[[竪義]]<rt>りゅうぎ</rt></ruby>を務めたのをはじめとして法華会、[[興福寺]]維摩会の[[竪義]]を務めている。当時、[[末法]]の到来といわれた永承七年(一〇五二)を数年後に控えた一八歳のとき、毎日一万遍の[[念仏]]を称えるようになる。二五歳のときには、宇治[[平等院]]の論義に参仕する。三〇歳の頃、生来病弱であった[[永観]]は、病に悩まされていた康平七年(一〇六四)に[[東大寺]]の[[念仏]][[別所]]であった[[光明山寺]]に[[隠遁]]する。そこで過ごすこと八年、病も平癒した[[永観]]は、京都[[東山]][[禅林寺]]の一角に東南院という庵を結び、[[念仏三昧]]の生活に入り『[[往生講式]]』を著している。この間、[[境内]]に[[施薬院]]を造り、そこで採れた梅を近隣に配り、これが「悲田梅」と呼ばれたという。応徳三年(一〇八六)には維摩会の[[講師]]の<ruby>公請<rt>くじょう</rt></ruby>を受け、康和二年(一一〇〇)には[[東大寺]]別当に補任している。二年後にはこれを辞し、翌年『[[往生拾因]]』を著す。この後、[[禅林寺]]東南院に蟄居し、天永二年七九歳で没する。
 
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【見よ項目】⇨[[永観]]
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【参考】大谷旭雄他『浄土仏教の思想』七「永観・珍海・覚鑁」(講談社、一九九三)
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【参照項目】➡[[禅林寺]]、[[光明山寺]]、[[顧阿弥陀]]
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【執筆者:坂上雅翁】

2018年5月31日 (木) 22:48時点における版

えいかん/永観

長元六年(一〇三三)—天永二年(一一一一)一一月二日。東大寺三世別当を務めた。「念仏宗永観」と自ら標榜し、生涯にわたり一心称念を貫いた南都浄土教を代表する僧。「ようかん」とも。東大寺東南院から念仏別所光明山寺に移り、のちに京都東山禅林寺に住した。永観が住したことから同寺は永観堂と通称される。また、禅林寺本尊は「<ruby>顧<rt>みかえり</rt></ruby>阿弥陀如来」とよばれ、永観修行中に示現した阿弥陀仏の姿を仏師に刻ませたと伝えられる。永観の祖父は源<ruby>国挙<rt>くにたか</rt></ruby>、父は源<ruby>国経<rt>くにつね</rt></ruby>。幼名は明らかではなく、二歳のときに石清水八幡宮別当、元命法眼の養子となる。八歳のとき、山崎開成寺に入り住持から「不動明王呪」を伝授される。一一歳のとき、当時東大寺別当でもあった禅林寺深観に師事し、このときに永観と名を改めたという。寛徳元年(一〇四四)、深観が別当を務める東大寺戒壇院具足戒をうけ出家し、東大寺東南院で三論宗の学侶となり修学に励んだ。東南院有慶のもとで三論、法相(唯識学)、<ruby>因明<rt>いんみょう</rt></ruby>(論理学)を学び、一四歳のとき<ruby>方広会<rt>ほうこうえ</rt></ruby>の<ruby>竪義<rt>りゅうぎ</rt></ruby>を務めたのをはじめとして法華会、興福寺維摩会の竪義を務めている。当時、末法の到来といわれた永承七年(一〇五二)を数年後に控えた一八歳のとき、毎日一万遍の念仏を称えるようになる。二五歳のときには、宇治平等院の論義に参仕する。三〇歳の頃、生来病弱であった永観は、病に悩まされていた康平七年(一〇六四)に東大寺念仏別所であった光明山寺隠遁する。そこで過ごすこと八年、病も平癒した永観は、京都東山禅林寺の一角に東南院という庵を結び、念仏三昧の生活に入り『往生講式』を著している。この間、境内施薬院を造り、そこで採れた梅を近隣に配り、これが「悲田梅」と呼ばれたという。応徳三年(一〇八六)には維摩会の講師の<ruby>公請<rt>くじょう</rt></ruby>を受け、康和二年(一一〇〇)には東大寺別当に補任している。二年後にはこれを辞し、翌年『往生拾因』を著す。この後、禅林寺東南院に蟄居し、天永二年七九歳で没する。


【参考】大谷旭雄他『浄土仏教の思想』七「永観・珍海・覚鑁」(講談社、一九九三)


【参照項目】➡禅林寺光明山寺顧阿弥陀


【執筆者:坂上雅翁】