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末法

提供: 新纂浄土宗大辞典

まっぽう/末法

釈尊の在世から長い時間が経過したために仏教すたれ、その教えは残っていても、正しく行じる者や証(さとり)を得る者のいない、荒廃した時代。仏教三時説における三番目の時代で、法然当時や現今もこれに含まれる。三時説とは、釈尊入滅を起点に、仏教が完全に滅びる法滅までの時間を、正法像法末法(正・像・末とも略す)の三段階に区切る時代区分である。釈尊入滅の後しばらくは、釈尊が説いた通りの正しい教えに従って修行し、証果を得る者のいる正法の時代が続く。しかしその後、教と行は正しく維持されるが、証を得る者がいなくなる像法の時代、さらには教のみが残る末法の時代へと移っていき、ついには法滅に至るという。インドでは釈尊入滅を契機として、時間の経過に伴う仏教の衰退や社会の荒廃を憂慮する思想が徐々に説かれ始めた。具体的には、時代が下るとともに五つの濁りが増していくという五濁説や、正法が廃れて相似の法である像法に取って代わられるという像法説、五百年もしくは千年の後に正法が滅尽するという法滅説などである。六世紀には、凶暴なエフタル族が北西インドに侵入して仏教を迫害し、その世相が経典にも反映して危機思想がより生々しく語られるようになった。ただし正・像・末という三時説そのものは、中国で成立したと考えられる。インドでエフタル族の迫害を目の当たりにした那連提耶舎が、天保七年(五五六)北斉に渡り、時代の悪化や法滅について説く経典を続けて漢訳した。中でも天統二年(五六六)に訳出した『大集経だいじっきょう月蔵分がつぞうぶんには、五百年ごと五段階の時代によって、仏教世間次第に荒廃するという五堅固説が説かれる。すなわち①覚りを得る者が多い解脱堅固②禅定三昧を修する者が多い禅定堅固③経典をよく読誦・聴聞する者が多い多聞堅固④寺院や堂塔の建立が盛んな造塔堅固⑤論争ばかりが激しくなり、正しい仏法は隠没してしまう闘諍堅固である。これらの経典が輸入・漢訳されるに伴い像法説法滅説とが結合し、三時説として説かれるようになった。それを初めて明文化したのが、南岳慧思の『立誓願文』である。そこでは「正法五百年・像法千年・末法万年」と三時の年数が定められるとともに、『本起経』に基づいて仏滅年代が計算され、慧思が生まれた北魏宣武帝延昌四年(五一五)はすでに末法の八二年に当たると記されている。また北周・天和五年(五七〇)に漢訳された『大乗同性経』下には「一切の正法、一切の像法、一切の末法(本によっては滅法とある)」という表現が見える。当時の中国は戦乱や飢饉によって社会が荒廃しており、さらに建徳三年(五七四)には北周武帝による廃仏毀釈事件が起きたため、末法到来が人々に強く実感された。その危機感の中で新たな時機相応仏教が模索され、信行は三階教を提唱し、また道綽はその著『安楽集』上に聖道浄土二門判を説き、「その聖道の一種は、今の時証しがたし。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理は深く解は微なるに由る…当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」(浄全一・六九三上)と表明した。ところで慧思以来、末法の期間は一万年とほぼ固定されたが、正法像法については一定せず、正法五百年・像法五百年説や正法千年・像法千年説なども見られる。その後、唐の基が教・行・証と結びつけて説明するに至り、正・像・末の意味内容はほぼ固定された。

日本では『日本霊異記』がいち早く正法五百年・像法千年説に則り、延暦六年(七八七)はすでに末法であると表明している。その後平安期後半に源信の『往生要集』や最澄に仮託した『末法灯明記』が著されるに伴い、末法思想は世に広く浸透した。そこでは正法千年・像法千年説を取り、周穆王ぼくおう五二年(紀元前九四九)の仏滅説から計算して永承七年(一〇五二)を入末法の年と見なす。そして実際にその年代に至ると天変地異が続発し、また政治の中心が貴族から武士へと移る過渡期とも重なり騒乱が絶えなかった。混迷の要因は末法にあるとしてその克服が仏教に求められ、顕密仏教の活性化が叫ばれるとともに、新たな日本独自の仏教の誕生が促された。法然は『選択集』の第一章に道綽の聖浄二門判を掲げて浄土宗立教開宗を宣言し、また第六章「末法万年にひと念仏を留むる篇」に、末法の一万年のみならず法滅の後百年まで浄土門念仏の教えは残ると説く。ところで道綽は聖浄二門判に先んじて「何に因ってか今に至るまで、なお自ら生死輪廻して、火宅を出でざるや…二種の勝法を得て生死はらわざるに由る」(浄全一・六九二下~三上)と問答を立て、法然も「世世生生を経て如来教化にも菩薩の弘経にもいくばくぞか遇いたてまつりたりけん…我らは信心疎かなる故に今に生死とどまれるなるべし」(『念仏大意』聖典四・三四九)と説く。末法の世に生を受けたのは、自身が仏道を求めずに生死輪廻を繰り返してきてしまったためと受け止めている。末法意識とは自己を取り囲む外的状況に対する危機意識であるが、その責任を自己の内に見出すことで主体的な宗教課題ともなる。なお親鸞日蓮貞慶明恵なども末法を課題としているが、道元は問題視しない。


【参考】山田竜城「末法思想について—大集経の成立問題—」(印仏研究四、一九五六)、藤本淨彦「浄土教における宗教的主体性の一断面—末法思想の宗教哲学的考察」(『浄土宗学研究』四、一九六九)、佐藤成順『中国仏教思想史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、福𠩤隆善「浄土教における時機観」(日仏年報四九、一九八四)、平雅行『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九二)


【参照項目】➡三時五濁聖道門・浄土門


【執筆者:齋藤蒙光】