操作

智光

提供: 新纂浄土宗大辞典

2018年3月30日 (金) 06:29時点におけるSeishimaru (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

ちこう/智光

和銅二年(七〇九)—宝亀年間(七七〇—七八一)。元興寺がんごうじの三論学者。河内国安宿部郡あすかべのこおり稲葉村の生まれ。師を智蔵とする説もあるが道滋とするのが有力である。同門には頼光らいこうがいる。『日本霊異記』によると、智光法相宗行基大僧正となったことを恨んで鋤田すきた寺に隠退し、一ヶ月ほどで急死し地獄に堕ちた。地獄の苦しみを味わった後、甦って難波にいた行基のもとへ行き罪を謝したとある。ここには行基の威徳を宣揚しようとする意図があったと同時に、相反する三論と法相の確執、三論側における法相への不満をみることができる。同様の話は『三宝絵詞』『往生極楽記』『今昔物語』にもみられる。また、『日本往生極楽記』によると、智光は年頃解行げぎょうが足りぬと思われた頼光の逝去を嘆いたが、夢の中で頼光に会うと、彼は極楽往生していた。いかにして往生を遂げたのか頼光に尋ねると、「四威儀の中に、唯だ弥陀相好浄土荘厳を観ぜり」(続浄一七・七下)と答えた。そして頼光が智光を仏前へ連れて行くと、智光は仏の右掌中に小浄土を観ることができた。夢から覚めた智光は、その様子をすぐさま画工に描かせ(智光曼陀羅)、一生これを観じて往生をとげたという。この物語は『今昔物語』『往生拾因』などにもみられる。智光の著書は多いが、現存するものは『般若心経述義』『浄名玄論略述』だけである。他に『大般若疏』『中論疏述義』『法華玄論略述』『盂蘭盆経述義』などのあったことが知られている。これらからその教学は、龍樹や羅什の系統である三論の吉蔵を継承するものと推察されている。浄土教関係の著作には『無量寿経論釈』『観無量寿経疏』『四十八願釈』がある。いずれも現存しないが、引用されている諸書をもとに復元研究がされている。その内容から、曇鸞による浄土教の影響が窺える。


【資料】『日本霊異記』、『日本往生極楽記』


【参考】戸松憲千代「智光の浄土教思想に就きて」(『大谷大学学報』一八—一、一九三七)


【参照項目】➡智光曼陀羅


【執筆者:髙橋寿光】