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時宗 - 版の履歴
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<td colspan='1' style="background-color: white; color:black; text-align: center;">2018年3月30日 (金) 06:26時点における版</td>
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Seishimaru
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2018年3月30日 (金) 06:26に192.168.11.48による
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<p><b>新規ページ</b></p><div>=じしゅう/時宗=<br />
[[一遍]]を[[宗祖]]とする[[浄土教]]の一宗。<ruby>[[遊行]]<rt>ゆぎょう</rt></ruby>宗ともいわれる。[[一遍]]は[[法然]]の[[弟子]][[証空]]の孫[[弟子]]にあたる。文永一一年(一二七四)[[一遍]]が熊野本宮<ruby>[[証誠]]殿<rt>しょうじょうでん</rt></ruby>に[[参籠]]し、[[権現]]の[[夢告]]により感得した「六十万人頌」、すなわち「<ruby>[[六字名号]][[一遍]]法<rt>ろくじみょうごういっぺんぽう</rt></ruby>、<ruby>[[十界]]依正[[一遍]]体<rt>じっかいえしょういっぺんたい</rt></ruby>、<ruby>万行離念[[一遍]]証<rt>まんぎょうりねんいっぺんしょう</rt></ruby>、<ruby>人中上々[[妙好華]]<rt>にんちゅうじょうじょうみょうこうげ</rt></ruby>」の頌にもとづき、「[[南無阿弥陀仏]]は絶対の教えであり、[[念仏]]を<ruby>称<rt>とな</rt></ruby>えて[[極楽]]に[[往生]]する人は白い[[蓮華]]のように清らかである」と、その身そのままに[[往生]]するという教えを説いた。[[時宗]]ではこのときを[[一遍]]の[[成道]]とし、[[時宗]]の[[開宗]]の年としている。[[時宗]]は「[[浄土三部経]]」の中で、特に『[[阿弥陀経]]』を所依の経典とする。またインド・中国・日本の[[祖師]]を経て、[[法然]]・[[証空]]・[[聖達]]・[[一遍]]と続く三国[[相承]]と熊野[[権現]]から授かった<ruby>神勅<rt>しんちょく</rt></ruby>[[相承]]の二つの[[相承]]のうち、[[時宗]]では後者を重要視する。そして、[[一遍]]以来の[[遊行]]、「[[南無阿弥陀仏]] [[決定往生]] 六十万人」の[[念仏]]札をくばる<ruby>[[賦算]]<rt>ふさん</rt></ruby>、[[踊り念仏]]を独特の三[[大行]]儀としている。[[時宗]]はもと[[一遍]]について[[遊行]]する僧尼を「[[時衆]]」と呼んでいた。[[時衆]]は[[遊行]][[上人]]([[一遍]])に対して、「未来際を尽すまで、身命を知識([[遊行]][[上人]])に譲り、此衆中にて永く命をほろぼすべし」(『[[一遍上人絵詞伝]]』六)という旨を誓い<ruby>鉦<rt>かね</rt></ruby>を打つ。いわゆる[[帰命]]戒を受けた[[出家]]のことである。[[時衆]]の語は、のちに「[[時宗]]」とも書かれるようになった。『蔭涼軒日録』寛正六年(一四六五)一一月一九日条に「久為[[時宗]][[道場]]」と用いられたのが初見である。[[教団]]組織が確立し、宗派[[意識]]が明確になったのは徳川時代であり、寛永一〇年(一六三三)幕府に提出した[[末寺]]帳(内閣文庫蔵)の表題に「[[時宗]]藤沢[[遊行]][[末寺]]帳」とあり、このとき、[[時宗]]という[[宗名]]が定まったと考えられる。宗派の成立は二祖他阿真教以後であり、真教は[[遊行]]だけでなく、[[時衆]][[道場]](寺)を建立して、そこを拠点にして[[布教]]するようになり、時[[宗教]]団は二つの形態を持つこととなる。一つは[[遊行]][[上人]]に率いられる一所不住の[[遊行]]衆であり、他は真教はじめ百余ヶ所の[[道場]]に止住する独住([[遊行]]をやめて寺に住むこと)の僧尼で構成される[[教団]]である。<br />
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【参考】今井雅晴『中世社会と時宗の研究』(吉川弘文館、一九八五)<br />
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【参照項目】➡[[時衆]]、[[一遍]]<br />
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【執筆者:長島尚道】</div>
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